第22話 返せるもの

抱きしめる力が少し強くなって、師匠の胸に頬を押し付ける形になる。

少しだけ師匠の心臓の音が速くなった気がして、心の中がざわつき始める。


「一人前になって、管理人として認められ、

 この部屋を俺のものだと受け取った時から、

 シアと一緒に住むことしか考えられなかった。


 お前が学園を卒業した時、本当はここに呼ぶつもりだった。」


そういえば学園を卒業した夜、初めて師匠のほうから呼び出しがあった。

卒業式の夜なのに誰にも祝ってもらえず、部屋に一人きりだった。

裏山に行って師匠に会った時、師匠からなんて言われただろう?


「俺と一緒に逃げようというつもりだったが、

 それより先にシアが卒業したら婚約者の商会で働くんだと報告してきた。

 少しだけど給金がもらえる、妹たちの持参金のためにも頑張ると言っていた。


 シアの苦労を何一つ知らないあの家の者たちのために、

 どうしてそこまで頑張るのかと言ってやりたかった。

 だけど、自分の意思で伯爵家に残ろうとしているシアを、

 無理やり連れてくることはできなかった。


 きっと、あの日連れ出しても、ここに来ることを拒否しただろう?」


それはそうだ。

あの時はまだ心が折れていなかった。

どんなにつらい思いをしたとしても、きっといつかは報われると思っていた。

師匠に逃げようと言われても、素直にうなずくことはできなかったと思う。

婚約者がいる身で師匠の手を取るなんて、そんなのは無理だから。



「それでもあきらめられずに、シアの部屋を用意し続けた。

 水色が好きだとか、白いレースにあこがれているだとか、

 刺繍道具を捨てられて悲しかっただとか、

 シアがあきらめて無かったことにした気持ちを拾い上げて作ったつもりだ。」


「だから…あんなにも私のあこがれの部屋に。」


多分、休憩中の話でしたんだと思う。

水色が好きだけど黄緑色の布地が安かったからワンピースの色が黄緑だとか。

妹たちのドレスには白いレースがついていて可愛かったとか。

お母様の使っていた刺繍道具を全部捨てられてしまったから、

そのことがとても悲しかったと言った覚えがある。


師匠といる時は少しだけ幼い子供でいられる気がしていた。

我慢していることを打ち明けても、師匠はそうかとしか言わない。

俺が何とかしてやろうとか、愚痴なんて聞きたくないとか言われたら、

もう二度と言わなかっただろうけれど。

師匠はいつもどうでもいいような感じでそうかと言うだけだったから。


まさか、そのすべてのことを覚えていて、

こうして私のために用意してくれていたとは思わなかった。



「師匠…やっぱり私は師匠にお返しがしたい。

 こんなにも幸せにしてもらって、何も返せていないのが苦しいです。」


「今、幸せにしてもらって、と言ったか?」


「……?はい、言いました。

 ここに来て、師匠と一緒にいられて、とても幸せです。

 お母様と暮らしていた時よりも毎日がうれしくて、

 師匠が一緒にいてくれて寂しくなくなりました。

 だから……。」


その続きは言わせてもらえなかった。

再び、師匠のくちびるが重なって、口をふさがれてしまった。

まさか話している時に変化した?

何の心構えもしていない時にくちづけされて、全身が苦しくて、

思わず師匠に強くしがみついた。


ゆるめてくれるかと思ったのに、より深く口づけされ、

まるで師匠に求められているような気持ちよさに翻弄されてしまう。


ようやくくちびるが離れた時、はずかしくて師匠から目をそらしてしまった。

そのことに気が付いたのか、師匠が慌てたように聞いてくる。


「……苦しかったか?」


「…わたし…また…変化して?」


「…いや、してない。」


「して、ない…?」


変化していないのに、あんな風にくちづけられたの?

まるで恋人のように強く抱きしめられて、気持ちよさで苦しくなって。

どうしてと見上げたら、まるで宝物を見るような目で見つめられる。

師匠…うれしそう?


「俺と一緒にいることで幸せになったと言ってくれた。

 その言葉だけで、俺はすべて報われたと思った。


 シアを幸せにするためにここに連れてきたんだ。

 俺に返そうと思うのなら、もっと幸せになってくれ。」


「幸せに?」


「そうだ。」


ちゅっと師匠のくちびるがふれるだけのくちづけが降ってくる。

くちびるに、まぶたに、頬に、頭の上に。

背中や頭や髪を撫でられながら、たくさんのくちづけを受ける。


あぁ、なんて幸せなんだろう。

私が幸せなら、それでいいって本当だろうか。

できるなら、この幸せを返したい。


少しだけ師匠の服をひっぱって、師匠の顔を近づけ、

身体を起こすようにして師匠の頬にくちづけた。

驚いた師匠の顔が初めて見た表情で、とてもうれしくなる。


「幸せを少しは返せました?」


「…シア、今、笑った。」


「え?」


「とてもうれしそうに笑ったんだ。

 あぁ、最高だな。

 俺もとても幸せだよ。」


もう一度強く抱きしめられた瞬間、二人の小さな笑い声が重なった気がした。




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