第8話 師匠

少ないけれど自分の服と下着を数枚、何冊かの本をカバンに入れて、

伯爵家の屋敷を抜け出した。


振り返って屋敷を見上げると、もう夜中だから静まり返っている。

最後に見る生家に、そっと別れを告げた。



裏庭から丘に上がり、森の中へと向かう。

しばらく歩いて月明りが差し込んでいる開けた場所で足を止めた。



左小指の指輪に擬態している使い魔に魔力を与えて呼びかける。


「師匠…今、会えますか?」


すぐに反応が返ってくる。

白い小さな蛇の使い魔の目が赤く光った。

今日は運がいい。めずらしくすぐに来てくれるらしい。


魔力の渦が見えたと思ったら、その中心に師匠が現れる。

紺色のローブ姿の師匠はこの10年、外見が変わっていないように見えた。

20代前半に見えるけれど、本当の年齢は聞いたことが無い。


長身で普段はフードを深くかぶっているけれど、

私に魔術を教えてくれる時だけ素顔が見える。

銀色の髪を束ね、切れ長の碧い瞳にまっすぐに閉じられたくちびる。

よくできたビスクドールだと言われても納得してしまいそうだ。

笑ったところは見たことが無いし、想像もできない。



それでも、師匠が優しいのは知っている。

まだ8歳で独学でしか魔術を知らなかった私と知り合って、

呆れながらもたくさんのことを教えてくれた。


魔術を教わることがどれだけ金銭がかかることだったか後から知って慌てたが、

師匠は一度もお礼を受け取ってくれなかった。


「こんな子どもから金を受け取るほど困っていない。」


そう言って、何も受け取ってくれないまま弟子になっている。

使い魔の蛇も、連絡用だと言って渡されたけれど、

使い魔がどれほど貴重なものなのか知った時にはもう契約した後だった。


そんな優しい師匠にも今日で別れなければいけない…。




「師匠…。」


「どうした?その荷物は何だ。」


いつもと違ってカバンを持ってることに気が付いた師匠が、

不機嫌そうに聞いてくる。


話そうとすると涙が出そうになって、思わず下を向いて声を絞り出す。


「…家を出てきました。

 これから遠くに逃げるので、師匠ともお別れ…なんです。」


伯爵家の力がどこまで通用するのかはわからないが、

連れ戻されないようになるべく遠くに逃げなければいけない。


もし、この辺をうろついていて捕まったら、

売られるように結婚させられて逃げられなくなるかもしれない。

師匠と一緒にいる時に見つかったら…師匠が責められるかもしれない。


…一応は伯爵令嬢だし、親の許可なく連れ出したとなれば…。

責められるだけでなく、捕まって処罰を受けるかもしれない。

師匠が悪く言われたりひどいことをされるのは…それだけは嫌だった。


ぎゅっと手を強く握りしめて声を振り絞った私に、

呆れたような師匠の声が降ってくる。


「…俺は、魔術の基本を何だと言って教えた?」


「…自分をごまかさない、嘘をつかない、です。」


「そうだ。強い力を持つからこそ、自分の心を欺いてはいけない。

 魔術がねじまがってしまう。


 …シア、本当の気持ちを言うんだ。

 俺とお別れして、遠くに逃げたいのか?違うだろう?」


聞き分けのない子どもに言い聞かせるような師匠の言い方に、

思わず見上げてしまう。ポロリと涙がこぼれた。

私をまっすぐに見つめてくる師匠から目をそらせない。


こんな風に私を見てくれたのは初めてな気がする。


「…シア、言うんだ。」


両頬をはさむように師匠の大きな手にふれられて、

見つめられたままで…もう嘘はつけなかった。


「…師匠、どうしたいいかわからないの。

 もう、あの家にはいられない。逃げなきゃいけない。

 だけど、師匠と離れたくない。会えなくなるなんて嫌だ。」


一度声に出したら、本音が次から次へと出てくる。

こんな風に願いを口に出したところで何も変わらないというのに。



「あぁ、わかってる。よく言えたな。」


「え?」


「お前がバルンディ伯爵家のレティシアなのは最初から知ってた。

 あの家から逃げ出したいと言うのなら、すぐに手を貸そうと思ってた。

 だが、お前はいつでもあの家のために頑張ろうとしていた。


 …シアが助けを求めてくるのを待っていたんだ。」


「師匠?」


私が伯爵令嬢だと知っていた?いつから?

そんな感じ、まったくしなかったのに、どうして?


疑問を口にするよりも先に、師匠に抱きかかえられる。

空間がぶわぁんと揺れて、これから転移するつもりなのがわかった。


「飛ぶよ。」

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