その216 悪党二人
意外と、痛くないものだな、と思った。
だが脳みその方は、起こった事態に強く反応している。視界が、ちかちかと点滅している。一瞬、気が遠くなりかけていた。
「………………ううう…………っ」
喉から情けない声が漏れ出て、必死に正気を取り戻す。
――諦めるな。生きることを諦めるな。戦え。戦え。戦え。
“プレイヤー”となった者の多くに共通する成功体験がある。
“ゾンビ”と戦い、殺したこと。
それにより、理外の力を得たということ。
杏奈もそうだった。彼女は当時、恋人を殺した。ゾンビに噛まれた、愛すべき人を。――今どき、珍しいことではない。
だから彼女は、こう思っている。
生きていくためには、殺すしかない。
自分はこれまで、そのようにして道を切り開いてきた。
それ以外、知らない。そうすることの他に、良い解決方法を知らない。
――《治癒魔法》……を、している余裕はない。
目の前の敵が、そんな悠長な間を与えてくれる訳がない。
敵は今、血に酔っている。知っているよ、それ。気持ちいいよな。私もそうなるとき、あるから。
「……ははッ。すっごい切れ味!」
仮面ごしに、瞳孔の開ききった目が覗き見える。
無論、攻撃の手は緩まない。
もっと、もっと、もっと。
血の味を覚えたけだものは、いつだって貪欲だ。
素早く刀を持ち替えた最歩は、杏奈の顎下を斬りつけるように、刀を持ち上げた。
「…………!」
咄嗟に上体を反らし、それを回避。
すると最歩は、高く持った刀を、さっと振り下ろす。
端からみればただ、無造作に刀を振っているだけ。洗練されているとは到底言えない、子供のチャンバラごっこにも似た斬撃だ。
問題は、その子供じみた攻撃が、とてつもない速度で行われていること。
――くそ…………!
なんだか、悪夢の中にいるような戦いだった。
頭では攻撃の軌道が読めているのに、体の方がぜんぜん追いつかないのだ。
「えいやっ」
「……ッ!」
後退し、刃を回避。
失われた血液が、浜辺の白砂を穢す。
「このー!」
「……ッ!」
後退し、刃を回避。
血液が跳ね、海水に紛れて消える。
「まだまだー!」
「……ッ」
後退し、刃を回避。
足下が、海中に囚われつつある。
――まずい。このままでは……!
一瞬、相棒に視線を送る。はやく。はやくフォローを。
しかし相棒は、ほとんど棒立ちの格好で最歩の背後に控えている。
恐るべきことにあいつ、切り札のはずの《肉の鎧》すら解除しているようだ。
杏奈の脳裏に、嫌な予感がちらつく。
――まさか。見捨てる気?
考えられない話ではない。
杏奈にしろ、早矢香にしろ、外道に身を落としてからというもの、様々な悪事に手を染めてきた。
その結果、『感情移入』という能力が失っている自覚がある。
杏奈が斬られた、その瞬間……早矢香は、支配下に置いている全てのネズミを行使して、攻撃を仕掛ける……そのつもりなのだ。きっとそうだ。そうに違いない。
――くそ、くそ、くそっ。
内心、歯がみする。
その間も、最歩の斬撃は続く。
足を踏み出す、その一歩一歩が命がけだった。仮に、ほんの少しでも目算と違う足場を踏んだら……その時が、終わる瞬間。無様にすっころんで、敵の一撃をまともにもらう。一巻の終わりだ。
「早矢香ッ」
溺れる者は藁を掴む。そのつもりで、叫ぶ。
だが、いつも通りの返答はない。目頭に、涙が浮かんでいるのがわかる。
二人は悪党だ。悪党だが、それでも長く、一緒にいたのに。
信じていた訳ではない、が。
こんな。
杏奈は、残った腕で破れかぶれにナイフを振り回し、
「う…………あああああ!」
目の前の女がいなくなることを望む。
「ちょっと。――もうちょっと真面目に戦ってくださいまし。練習にならないじゃありませんの」
だが、奇跡は起こらない。
最歩は、杏奈の攻撃をひょいっと躱して、再び攻撃に転じた。
「く……っ」
死ぬ。このままただ、手も足も出ずに。
それが、ジンジャエール無限飲み飲み杏奈の天命のようだった。
すると、
「――――!」
折れた心に応えるように、杏奈は足を踏み外す。水流の関係で、深くくぼんだところを踏んだのだ。塩辛い水しぶきが舞い、水中にひっくり返る。
「やめ…………ッ」
口から泡を吐きながら、杏奈は自分に唯一できること……命乞いをする。
すると夢星最歩は、刀を天空に向けた格好のまま、静止した。
腰を抜かした杏奈は、ここぞとばかりに叫ぶ。
「なんでもする! “従属”したっていい! ……だからせめて、命は……!」
すると最歩は、なんだかきょとんとした表情をして、
「えっ。でも――あなた、“プレイヤー”なら、そうして命乞いする人、たくさん殺してきたんでしょ?」
それは。
反論は許されなかった。
杏奈は、眼前に白刃が迫るところを、ボンヤリを見て。
その時だった。
「――――――――《エメンタール・チーズアイ》」
波音に紛れて、相棒の声が聞こえたのは。
その、次の瞬間だった。
「ぐ」
突如、目の前の女が苦しみだして……。
ぼつんっ。
……という、奇妙な音と共に、その頭部が、爆ぜたのだ。
ぼつんっ、ぼつんっ、ぼつんっ。
そしてそのまま、彼女の頭部に複数の穴が空く。
まるで、複数の気泡が弾けるように。
「ぎゃ……ぎゃふん」
その、間の抜けたセリフが、断末魔であった。
「…………!」
おぞましい光景である。
現れた女……夢星最歩はそのまま、悲惨な最期を遂げた。
彼女の死体は今、マンガでよく見られるチーズのように穴だらけになって、水中に没している。
混乱、していた。
それでも、ベテランの“暗殺者”である彼女は、事態をしっかりと見届けている。
――一瞬、最歩の全身に、ネズミが取りついたのが見えた。
そしてそれが、球形の爆発を起こして。
「はあ。……はあ。……はあ。…………」
顔を上げるとそこには、早矢香の姿。
どうやら、“魔力切れ”を起こしたらしい。
「さっ……早矢香!」
波を蹴り、相棒に駆け寄る。
疑った自分が、バカだった。
早矢香は、杏奈すら知らない秘技を使って、自分を助けてくれたのだ。
膝をつき、倒れた彼女を、片腕で抱く。
「良かった……わ、私、一瞬、見捨てられたかと……!」
「バカ言わないで」
早矢香は、吐き捨てるように言う。
「魔力の充填に。……時間の。かかる。スキル。だったの。あいつの。馬鹿げた。防御力。……これくらいでも。しなくちゃ。殺せなかった」
「そ……そっか……」
「そう」
二人、ほっと安堵して、笑う。
まだ、決して……助かった訳ではないのに。
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