その215 どこにでも
「っ…………!?」
「な。に。こ。れ。…………!」
若い女が二人、周囲を見回しながら目を見開いている。
暖かな気候。潮の匂いが、鼻につく。
休暇を楽しむにはピッタリのロケーション、だが……。
――得体が知れない。意味が分からない。
いまは、圧倒的に恐怖が上回っている。
事態を理解したのは、それから数瞬後、
▼
――“どこにでも行けるドアノブ”。
ヒトの意思が物理的作用を及ぼす力を、超能力と言う…………。
▼
敵が使ったアイテムの情報を知ってから。
――戻らないと。
そう思って振り向くが、時すでに遅し。
例の仮面女が、“ドアノブ”をポケットにしまっているところだった。
「おほほほほ。まんまと罠に引っかかりましたわね~」
それで、いま起こった事象をなんとなく察する。
敵はこちらの脱出路に、あらかじめ“どこにでも行けるドアノブ”を仕掛けていたのだ。
そうとも知らず、杏奈たちは扉の向こうへ逃げ込んでしまった。
そこが、敵のテリトリーに繋がっているとも知らずに……。
――殺すしかない。
咄嗟に、そう思う。
殺して、“ドアノブ”を奪い取る。その他にやり方はない。
こういう時、素直に降参する、などという発想は、杏奈たちにはなかった。
これは、“プレイヤー”となった瞬間にかけられた、呪いと言ってよい。
“ランダム・エフェクト”のものたちはみな、経験値とレベル上げに飢えているし、彼女たちにとって、生殺与奪の権利を与えるということはすなわち、死を認めるのと同意義であった。
「早矢香」「杏奈」
二人、名を呼び合って覚悟を固める。
すでに早矢香の周囲には、ドブネズミが集合していた。“ドアノブ”で移動した時点で、彼女の
こうなってしまっては、早矢香も奥の手を披露しないわけにはいかなかった。
いま、彼女の全身に、大量のネズミが集まっている。
灰色の生物が、身体を余すことなく覆い隠し……まるで、西洋の甲冑のような形となる。
《肉の鎧》。
彼女が創り出した、オリジナルのスキルだ。
早矢香はこのスキルを編み出すのに、都内のはぐれ者を百人ほど殺傷している。
「そこの“獣使い”さん、気持ち悪い技ばっかり使いますのね……」
そう言いながら、抜き身の太刀を構える最歩。
彼女は、大きく深呼吸したのち、
「まあ、実戦の練習もかねてということで。たっぷりやりあいま……」
皆まで言わせるつもりはなかった。
こうなった場合、早矢香と杏奈のフォーメーションは逆転する。
早矢香が敵の攻撃を受け、杏奈が可能な限り斬撃を叩き込む。
もはや、低確率の“即死”攻撃だけに頼るつもりはない。
有りと有らゆる能力を行使する、“魔力切れ”覚悟の戦法だ。
「りゃあッ!」
どこか弱々しい声を上げながら、早矢香が飛びかかる。
《肉の鎧》モードになった早矢香の戦術は……かなり大味だ。
これは彼女が、《格闘技術》などによる強化をほとんど行っていないためである。
だが、それで十分であるとも言えた。
彼女の肉体は今、大量の鼠たちによって保護されており、早矢香はそれら、一匹一匹の動きを制御することができる。
これはつまり、千本の手を自在に操るに等しかった。
「――よっ!」
最歩が、さっと太刀を振るう。
銀色の刃が早矢香を両断……したかに見えた。
だがそれは、完全なフェイントである。いま斬られたのは、《肉の鎧》の部分……鼠たちだけ。攻撃の一瞬、早矢香は素早くかがみ込んでいたのだ。
「うおっ、身代わりの術!?」
同時に、両手を二度、ぴゅんぴゅんと振るう。
そのたび、早矢香の首元に二枚、しびれ毒が塗られた手裏剣が突き刺さった。
「あいたっ」
とはいえ、手疵を負わせるには至らず。
とあるツテで買い付けた特注の手裏剣は、ゴム製の玩具のように皮膚を弾いただけ。
やはりこの女、普通の人間より防御力が高いらしい。
仮面をしているため、目に当てるのも難しい。杏奈は素早く作戦を変える。やはりここは、手数を稼いで、即死狙い……。
その、次の瞬間だった。
「――御免、あそばせ」
敵が、“さしたる用もなかりせば”の能力を発動したのだ。
するとどうだろう。最歩の姿が、――まるで、空中に溶けるように消えたのである。
「…………ッ。早矢香、気をつけて」
「わかってる」
念のため、四方八方に手裏剣を投擲。
しかし敵に当たったような気配はなかった。
どうやら完全に、この世界から消えてしまっているようだ。
二人、しばらく周囲に気配を向ける。
その時間が、四、五分ほど続いて。
――これは……。
そこで杏奈たちは、敵の能力の、真の恐ろしさを知った。
こちらは、向こう側に一切の手出しができない。
にもかかわらず、まったく油断することもできない。
「………………ッ」
杏奈は歯がみして、ぷるぷると小刻みに震える両腕を押さえた。
――勝てない。強すぎる。
ただ、敵の攻撃を待ち構えているだけ、なのに。
すでに彼女は、心が折れかけている。
敵はすでに、万全の準備を整えてここにいる。
対応者である自分たちではもはや、勝ち目はない。
――助けて……。
こういう時思いを馳せるのは……皮肉にも、ハンバーガー大好き太郎の顔であった。
あいつなら。
あのイカレた女なら、“魔女の落胤”に勝てるかもしれない。
……と。
意識が緩んだ、次の瞬間だ。
「………………よいしょっ」
なんの前触れもなく、突如として目の前に、夢星最歩が登場。
シロウトっぽい上段からの振り下ろしで、杏奈の左腕を両断した。
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