その214 狂人

「杏奈」「早矢香」


 二人、それぞれ名を呼び合う。


 “魔女の落胤”。

 そう呼ばれている連中の危険性は、何もその、特殊能力が所以ではない。

 アリスに見込まれた人間は皆、正気ではない。狂人なのだ。これは由々しき事態である。

 狂人であるということはつまり、行動に法則性がないということ。行動が読めないということは、どう戦略を組み立てて良いかわからないということだ。


 “ランダム・エフェクト”は一度、“魔女の落胤”と思しき“プレイヤー”の襲撃を受けたことがある。

 当初その行動は、東京駅構内にある物資が目的かと思われた。

 食い物、寝床、安全な交尾。

 それこそが、ヒトが求める全てのものだから。

 だが結果的に、杏奈たちの予測はまるで外れていた。


――楽しかったから。面白かったから。


 それが、下手人の遺した最期の望みである。

 彼は、駅に火を放ってへらへらと笑っていたという。


「………………!」


 ぶるぶる、と、全身が震えた。

 警戒レベルを上げて、杏奈はそっとナイフを構える。


 一つ。間違いないことがあった。

 どうもこの女、孝之助を狙ってここにいるわけではないらしい。

 だから杏奈たちは、この冴えない男を護る必要はない。敵を撃退することに集中すればいいのだ。


 そして、もう一点。

 どういうつもりかはわからないが……敵は、あえて手の内を晒している。


 “さしたる用もなかりせば”。


 それがいま、敵の持っている武器の名前だ。よくわからんが、『それでは御免』というセリフと共に、その場から脱出する力を持つらしい。


 “プレイヤー”としての勝負は、戦う前から決まっていると言える。

 機知や技術だけではどうにもならぬ、“レベル”の差が存在するためだ。


 だが、運次第でその差を埋められるのが、“暗殺者”というジョブの特徴である。

 杏奈は、運さえよければ最強の“プレイヤー”だろうが即座に殺すことができるのだ。


――ここから先は、運ゲーになる。


 しかも、かなり分の悪い運ゲーだ。


 覚悟は、数秒もあれば十分に固めることができた。

 彼女たちのような末端の“プレイヤー”は、他者の命と同様に、自分自身の命をも軽んじている。そうならなければ生き残れないほどに、“終末”後の体験は鮮烈だった。


「さあ、来なさい」


 自信満々の敵に、杏奈は素早く飛びかかる。


「きえぇッ」


 気合一閃。

 攻撃は、致命傷を狙う必要はない。かすめるだけでいい。

 1点のダメージを積み重ねるのが“暗殺者”の戦い方だ。


 敵は、攻撃の軌道を読んだのだろう。左肩を少し動かし、必要最小限度の動きで攻撃を躱す。チリリと音を立て、敵の服の表面が裂けた。


「――むっ」


 少しだけ、不機嫌そうに唸る最歩。お気に入りの服だったのだろうか。

 すぐさま、上段から太刀が降ってきた。


「こんにゃろー」


 気の抜けた声。へっぴり腰。だがそれでも、恐るべき剣速だ。

 恐らくこの女、筋力が強化されているのだろう。

 剣道を習っているものとは思えぬ、ちぐはぐな剣捌きであった。


「――っ」


 恐らく、まともにもらえば即死だろう。

 杏奈はそれを、危うく回避……冷や汗を垂らす。


――沙也香じゃ躱せない。斬らせるわけにはいかない。


 そう判断した彼女は、敵の攻撃範囲ぎりぎりの間合いで、さっと距離をとる。間髪入れず、数匹のネズミが《体当たり》を仕掛けた。弾丸のごとき速度で飛び立つネズミたちを、


「わ。わ。汚い」


 仮面女は、大げさなアクションで避ける。

 どうやらこの女、ナイフで裂かれるより、ネズミに触れる方がよっぽど厭らしい。

 怪我よりも、不衛生さを起因とする病原菌を恐れる発想は、防御力に自信のある“プレイヤー”の挙動だ。もちろん、そう見せかけているだけかも知れないが。


 杏奈は、熟練の戦闘者故の直感で、その隙を突く。

 三度。

 どす、どす、どす、と、渾身の突きを、敵の脇腹に突き刺すことができた。


「……ちっ」


 しかし、事前に想定したとおり、敵はなんの痛痒も感じていないようだ。


「へへーん。事前に防御力あげといてよかったぁ♪」


 するとどこからか、声が聞こえてくる。


『安心するなっ。攻撃を受けると即死するかもって言ったろ!』

「えへへ。ごめんあそばせ」

『なんのために新しい武器、買ったと思ってる。しっかりしろ』

「はぁい」


 そんな、気の抜けるようなやりとり。


 早矢香と杏奈は、一瞬だけ目配せをした。

 どうやらこの敵、他に仲間がいるらしい。


――分が悪いな。逃げるか。


 その判断は、早い。


 プレイヤー同士の戦いでは常に、逃げることを視野に入れる。

 下手に戦って命を落とすと、仲間に多大な迷惑がかかるためだ。

 プレイヤーの命は、多大な経験点とスキルを伴っている。


 勘のいい相棒はすでに、ネズミたちに命じてまず、孝之助を逃がし始めていた。

 あとは、うまいことお茶を濁して、逃げるだけ。


「杏奈ッ」


 沙也香の一声とともに、ネズミが群がってくる。

 室内はすでに、絨毯を敷いたような量のネズミであふれていた。


「わああああっ。集合体恐怖症が!」


 などとほざいている敵を無視して、杏奈はその中へとダイブ。

 人が走るよりも遙かに早く、ネズミたちが彼女を外へと運んでくれる。


――よし。このまま……!


 マンションを出て、東京駅へ逃げ帰る。


 そう思っていた沙也香と杏奈の思惑は、完全に外れることとなった。


「……………………………えっ」


 飛び出した二人が目の当たりにしたものは、ここ一ヶ月で見慣れた廃マンションの廊下ではなく……。


 海。


 四方を海で囲まれた、無人島の一角であったのだ。

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