その3 取引
二人、弟の部屋の前に立つと、……唐突だった。
――あなたは”ある理由”により、生き残らなければなりません。
――あなたの存在が必要とされなくなるその日まで、あなたを導きましょう。
という声が、頭の中に聞こえてきたのは。
声の主には、すぐに思い至った。
目の前にいる少女と同じ声だったのだ。
「……ん、む」
『お、聞こえたか』
「ああ。……なんだ、今の」
『おぬしが”プレイヤー”だという証じゃよ』
”ある理由”ねえ。
「別にいいんだけど君、頭の中だと敬語でしゃべるのな」
『その方が雰囲気でるじゃろ。――それに口調を変えれば、儂の正体を隠すことにも使える』
「なんか、萌え声生主みたいな発想だな」
『なに? モエゴエ……?』
「いや、なんでもない。口が滑っただけだ」
我ながら呆れる。ネット用語を現実で話してしまう、などと……。
最近、オタク界隈の連中とばかり話していたから、ついついそういう癖がついている。
アリスの声は、こう続いた。
――武器を手にとって下さい。
と。
僕は少し考えて、出刃包丁を見る。
「武器って果たして、これでいいのかな」
『本当なら、初期装備でユニークスキルが決まるようになってるのだが……まあ、おぬしの場合は特別扱いってことにしちゃる。大事なのは、最初の一歩を踏み出せるかどうかよ』
「ふーん」
『まあ、儂を刺した胆力を見るに、その辺は心配しとらんが、の』
くしゃり、と、少女が酷薄な笑みを浮かべる。
子供らしからぬ、老獪な表情だ。
「…………………………」
しばし、反論を探した末、――押し黙る。
こういう時、いちいち反論しても仕方あるまい。
「じゃ、……いくぞ」
『うむ』
そうして、思い切って部屋の扉を開く、と、――そこには、ベッドの上で拘束されている弟がいた。
『――ギアアアアアアアア、ア、ア、ア、ア………ッ!』
愚弟はいま、生前の彼からは想像できないようなソプラノ・ボイスで吠えている。どうも仲間を呼んでいるらしい。部屋が防音でなければ、我が家にはもっとたくさんの死人たちが集まっていたことだろう。
ただでさえ土気色のその顔面からは、よりいっそう血が通っていない感じで、”ゾンビ”というよりは何か別の怪物を思わせた。
その両目からは、大量の涙の跡が見られる。
惨めな己の境遇を恨んで流した涙だろうか。
先光亮平。
それが、かつてこいつが名乗っていた名だ。
今はもう、どこにもいない。
「昨夜はまだ、おしゃべりくらいはできたのだが、……」
『まあ、変異のスピードは人それぞれじゃからのー』
そうか。
僕が”カルボナーラ・トースト”を焼いている頃にはすでに、やつの命は尽きてしまっていたか。
『そんなことはいい。さっさと始末してしまえ』
「わかった」
まず、適当な衣類で左手を巻く。
万が一噛みつかれても大丈夫なように、だ。
『ガア! ガア! ガアアアアアアアアアアアアアア!』
そしてモチベーションを上げるため、こいつから以前受けた侮辱を思い出すことにした。
――兄貴さあ、いい年してグリーンピースを避けて食うなよ。それ込みのミックスベジタブルなんだぞ。
――フルーツ系のドロップなら全部食ったよ。兄貴はハッカ味だけ食べなよ。
――あれ? 柿の種の豆はあんたが食うって、取り決めてなかった?
――兄貴よう。あんたそんなケチくせーことばっか言うから、一生彼女とかできねーんじゃねーの?
よし。なんだか心に怒りがこみ上げてきたぞ。
殺ろう。
『グルァッ! グルアアアアアッ!』
「ええと……たぶん、この辺りかな」
首元を抑え、しっかり固定してから、……僕は慎重に包丁を構えた。
確か眼窩の奥には、神経を繋ぐ穴があったはず。
そこに切っ先を差し込めば、さほど苦労せずに脳をかき回すことができる。
作業は、できるかぎり迅速に済ませるつもりだった。
その方が精神的な重荷を背負わずに済むし。
包丁の刃先で目玉を突くと、ぷちゅり、と、なんとも言えない厭な感触がして……それでもさらに力を込めると、こつ、と眼窩の底へと行き当たる。
そのまま、包丁の切っ先で周辺をまさぐると、……まるで、プラモデルの部品がカチリとハマるように、脳へと繋がる入り口を探り当てた。
そこからさらに、ぐっと満身の力を込めると、
『グッ……ガッ!』
愚弟は、スイッチが切れたようにあっさりとその身動きを止める。
すると、
――おめでとうございます! あなたのレベルが上がりました!
という、頭の中の声。
「……ふう」
ほっと一息。
振り返ってアリスを見ると、彼女は満足したように頷いた。
『よっしゃ。おっけ。そんじゃーこの案件いったん持ち帰って、おぬしにちょうど良いユニークスキルを考えとくよ』
そう言って背を向ける彼女を、僕は慌てて引き留める。
「いや、ちょっと待ってくれ」
取引するなら今。
この瞬間しかない。
『ん? まだ何か?』
「……ずっと、訳がわからんままで、なんとなく話を聞いてきたが。……そろそろ質問してもいいか」
『はあ。内容によるが』
「あんた、……よくわかんないけど、魔法使い的な何者かでさ。なんか僕に、不思議な力を授けてくれる……とか。そういう解釈でいいんだよな?」
『ああ、まあ。そのつもりじゃが。具体的な内容は、帰ってお風呂に入ったりしながら決める。心配せずとも、おぬしにぴったりの能力にする予定じゃよ』
「せっかくの好意だが、僕は何も要らない。必要としていない」
『なんじゃと?』
アリスは、心外そうに眉を段違いにした。
どうもやはり彼女、想定外のことがあまり好きではないらしい。
「だがその代わり、――頼みがあるんだ。たった一つで良い。僕の望みを叶えてくれないだろうか」
『……ふむ。言うだけ言ってみい。聞くだけ聞いてやる』
「ありがとう」
そして、彼女に言う。
僕のたった一つの望み。それは、――
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