その2 提案
世界が壊れたのは、今から一週間前のこと。
渋谷の交差点にて。
誰もが、最初に現れた“それ”を酔っぱらいか何かだと思ったらしい。
とことこ歩いて、近くにいたおじさんをガブリ。
二人を引き離そうとした勇気ある若者もガブリ。
アウトブレイクの始まりだ。
それから世界中、あちこちの都市で感染者が現れた。
いまでは単純に、“ゾンビ病”と呼ばれているその病は、いつ、どこで、どのように生まれたのか、詳しいことは誰も知らない。
神が人類を滅ぼすために作った、なんて言う人もいる。
終末のラッパが吹かれた。地獄の釜の蓋が、開かれたのだと。
あるいは単に、神のきまぐれ、とか。
結局のところ、その原因は誰にもわからない。
ただ、ひょっとするとぼくはいま、この世界の真実と向き合っているのかもしれなかった。
▼
一つだけ、奇妙な確信がある。
生かすか。
殺すか。
目の前にいるこの少女の思案は、決してハッタリではない、と。
彼女がその気ならきっと、指をぱちんと鳴らすだけで、僕などは跡形もなく消滅してしまうだろう、と。
とはいえ不思議と、恐怖はなかった。
死人がそんじょそこらを歩き回るようになり、愚弟が左肩を噛まれてからというもの、僕の覚悟はとっくの昔に固まっていたんだ。
「そこまで僕の暴走が気になるなら、……一つ、提案がある」
『ん?』
「ここで一つ、君に宣誓しよう。『
『――は?』
少女は、アルビノ特有の淡紅色の瞳を丸くして、
『おぬしそれ……いや、いくらなんでもそれ、かなり辛いぞ』
「いま殺されてしまうよりマシだろ」
『そぉか? 面白おかしく生きられないなら、死んだ方がマシじゃないか』
ほほーう。
この娘、そういう死生観なのか。
……いけるかもしれない。
『それに、そうなるとおぬし、家が壊されてしまうと同時に死ぬことになる。この家、一戸建てみたいだけど築何年?』
「十三年だったかな。結構新しい方だよ」
『だとしても、天寿を全うするのは難しいぞ。家の寿命が、おぬしの死ぬ時になるからの』
「その時は、その時だ」
『なるほど。覚悟はある、と』
彼女は、木の椅子の上で三角座りになって、
『うん……しかし……ふむふむ。引きこもりの”プレイヤー”か! そこそこ面白くなるかも知れないな。いいぞ』
「気に入ってくれたかい」
『うむ。わりと気に入った。おぬしのキャラ適正にもちょうど合いそうだし』
「そりゃあ良かった」
『しかしそーなると逆に、そこそこチート気味の補助が必要になるかもな……いくらなんでも、外に出られんとなると経験値が稼ぐのが難しいじゃろーし』
「経験値?」
『ああ。おぬし……は、まだそうじゃないが、”プレイヤー”って連中がいてな。そいつらは基本、生き物を殺したり、人に感謝されるなどして経験値を稼ぐ。んで、レベルアップして、強くなっていくわけよ』
「ほほぉ」
まるでロールプレイングゲームだな。
……いや、実際、
『まあ、細かいキャラ付けと能力は、またもうちょっと詰めてから、次の機会ということにしよっか。……だが、その前におぬしは一つ、試練を超えねばなるまい』
「試練、というと?」
『なんでもいい。たぶん”ゾンビ”が一番手っ取り早いじゃろ。”敵性生命体”を一匹、狩ってもらう。”終末”後の覚醒はそれがトリガーになるからの』
「へぇー。誰でもいいのかい」
『うむ』
「それだったら、……都合が良いのがいる。二階に」
『二階?』
「うん。ちょっと前に愚弟が噛まれてね。感染してしまったので、いまはベッドに縛り付けてある。ほとんど無抵抗で息の根を止められるはずだ」
『おおっ。それマジで、ご都合にぴったりじゃないか』
白髪の少女は、ぴょんと跳ねるようにして椅子から降りて、
『さっそく仕留めよう。儂が見といてやる』
「うん」
僕は、台所から出刃包丁を引っ張り出して、それを右手で握りしめる。
もし、何か起こったらこれを使おうと、あらかじめ刃を研いでおいたものだ。
『で、弟くんの部屋はどちら?』
「階段上がって右」
『よし』
そして、意気揚々と二階へと上がっていくアリスの背中目掛けて……さっと得物を振り下ろす。
ドスッと、鶏肉に刃を入れたときと大差ない音がして、包丁が幼女の身体に突き刺さった。
刃渡り二十センチほどのそれは、薄い身体を貫通し、その向こう側に刃先を覗かせている。
だが、そこには不思議と、一滴の血も付いていない。
『……ム?』
さすがに驚いたらしいアリスが、あどけない表情でこっちを見た。
僕はそんな彼女に、なんだかエロティックなものを感じている。
――まだ死なないのか、こいつ。
やむを得ず、包丁を持つ手に満身の力を込めた。彼女の内臓をめちゃくちゃに引き裂くために。
だが、それ以上のことは、僕の力では不可能だった。刃があばら骨に引っかかる感触がして、包丁は一寸たりとも動かなくなってしまう。
『何をする』
アリスは平然としている。
「……いや。ちょっと試してみようと思ってさ。ひょっとすると、この世界の救世主になれるかもしれないし」
『そうか。まあ人間、いろいろ試すのは良いことじゃ』
一応こう見えて、わりと決死の行動だったのだが、アリスはこれっぽっちも意に介した様子がない。
――どうも、僕では相手にならないらしいな。
そう察して、包丁をずぶりと引き抜く。
改めて刃先を確認するが、まるで藁人形を刺したみたいに濡れていないのが不気味だった。
案外、彼女、
よくあるだろ? 目の前にいるのは分身か何かで、本体は別のどこかにいる、みたいなの。なんとなく彼女から、そういう感じがしていた。
「悪かったよ。もうしない」
『えーっ。普通、それで済む話じゃなくなーい?』
「朝ご飯を分けてやったろ」
『古くなった卵じゃろうが』
「トーストは古くないし」
『……ふん。まあ、よかろ』
そう言って再び、アリスはとん、とん、とん、と、軽快に足音をさせて二階へと昇っていく。
……おいおい。本当に許しちゃったよ。
眉間を揉む。
あるいは今の一撃、彼女にとっては、……赤児がごねた程度のもの、なのかも知れない。
僕は思い切り苦笑いして、その背中を追いかける。
どうもこうも、えらいことに巻き込まれたみたいだな、と、思いつつ。
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