その2 提案

 世界が壊れたのは、今から一週間前のこと。

 渋谷の交差点にて。

 誰もが、最初に現れた“それ”を酔っぱらいか何かだと思ったらしい。


 とことこ歩いて、近くにいたおじさんをガブリ。

 二人を引き離そうとした勇気ある若者もガブリ。


 アウトブレイクの始まりだ。


 それから世界中、あちこちの都市で感染者が現れた。

 いまでは単純に、“ゾンビ病”と呼ばれているその病は、いつ、どこで、どのように生まれたのか、詳しいことは誰も知らない。

 神が人類を滅ぼすために作った、なんて言う人もいる。

 終末のラッパが吹かれた。地獄の釜の蓋が、開かれたのだと。


 あるいは単に、神のきまぐれ、とか。


 結局のところ、その原因は誰にもわからない。

 ただ、ひょっとするとぼくはいま、この世界の真実と向き合っているのかもしれなかった。




 一つだけ、奇妙な確信がある。


 生かすか。

 殺すか。


 目の前にいるこの少女の思案は、決してハッタリではない、と。

 彼女がその気ならきっと、指をぱちんと鳴らすだけで、僕などは跡形もなく消滅してしまうだろう、と。


 とはいえ不思議と、恐怖はなかった。

 死人がそんじょそこらを歩き回るようになり、愚弟が左肩を噛まれてからというもの、僕の覚悟はとっくの昔に固まっていたんだ。


「そこまで僕の暴走が気になるなら、……一つ、提案がある」

『ん?』

「ここで一つ、君に宣誓しよう。『』と」

『――は?』


 少女は、アルビノ特有の淡紅色の瞳を丸くして、


『おぬしそれ……いや、いくらなんでもそれ、かなり辛いぞ』

「いま殺されてしまうよりマシだろ」

『そぉか? 面白おかしく生きられないなら、死んだ方がマシじゃないか』


 ほほーう。

 この娘、そういう死生観なのか。

 ……いけるかもしれない。


『それに、そうなるとおぬし、家が壊されてしまうと同時に死ぬことになる。この家、一戸建てみたいだけど築何年?』

「十三年だったかな。結構新しい方だよ」

『だとしても、天寿を全うするのは難しいぞ。家の寿命が、おぬしの死ぬ時になるからの』

「その時は、その時だ」

『なるほど。覚悟はある、と』


 彼女は、木の椅子の上で三角座りになって、


『うん……しかし……ふむふむ。引きこもりの”プレイヤー”か! そこそこ面白くなるかも知れないな。いいぞ』

「気に入ってくれたかい」

『うむ。わりと気に入った。おぬしのキャラ適正にもちょうど合いそうだし』

「そりゃあ良かった」

『しかしそーなると逆に、そこそこチート気味の補助が必要になるかもな……いくらなんでも、外に出られんとなると経験値が稼ぐのが難しいじゃろーし』

「経験値?」

『ああ。おぬし……は、まだそうじゃないが、”プレイヤー”って連中がいてな。そいつらは基本、生き物を殺したり、人に感謝されるなどして経験値を稼ぐ。んで、レベルアップして、強くなっていくわけよ』

「ほほぉ」


 まるでロールプレイングゲームだな。

 ……いや、実際、なのか。


『まあ、細かいキャラ付けと能力は、またもうちょっと詰めてから、次の機会ということにしよっか。……だが、その前におぬしは一つ、試練を超えねばなるまい』

「試練、というと?」

『なんでもいい。たぶん”ゾンビ”が一番手っ取り早いじゃろ。”敵性生命体”を一匹、狩ってもらう。”終末”後の覚醒はそれがトリガーになるからの』

「へぇー。誰でもいいのかい」

『うむ』

「それだったら、……都合が良いのがいる。二階に」

『二階?』

「うん。ちょっと前に愚弟が噛まれてね。感染してしまったので、いまはベッドに縛り付けてある。ほとんど無抵抗で息の根を止められるはずだ」

『おおっ。それマジで、ご都合にぴったりじゃないか』


 白髪の少女は、ぴょんと跳ねるようにして椅子から降りて、


『さっそく仕留めよう。儂が見といてやる』

「うん」


 僕は、台所から出刃包丁を引っ張り出して、それを右手で握りしめる。

 もし、何か起こったらこれを使おうと、あらかじめ刃を研いでおいたものだ。


『で、弟くんの部屋はどちら?』

「階段上がって右」

『よし』


 そして、意気揚々と二階へと上がっていくアリスの背中目掛けて……さっと得物を振り下ろす。

 ドスッと、鶏肉に刃を入れたときと大差ない音がして、包丁が幼女の身体に突き刺さった。

 刃渡り二十センチほどのそれは、薄い身体を貫通し、その向こう側に刃先を覗かせている。

 だが、そこには不思議と、一滴の血も付いていない。


『……ム?』


 さすがに驚いたらしいアリスが、あどけない表情でこっちを見た。

 僕はそんな彼女に、なんだかエロティックなものを感じている。


――まだ死なないのか、こいつ。


 やむを得ず、包丁を持つ手に満身の力を込めた。彼女の内臓をめちゃくちゃに引き裂くために。

 だが、それ以上のことは、僕の力では不可能だった。刃があばら骨に引っかかる感触がして、包丁は一寸たりとも動かなくなってしまう。


『何をする』


 アリスは平然としている。


「……いや。ちょっと試してみようと思ってさ。ひょっとすると、この世界の救世主になれるかもしれないし」

『そうか。まあ人間、いろいろ試すのは良いことじゃ』


 一応こう見えて、わりと決死の行動だったのだが、アリスはこれっぽっちも意に介した様子がない。


――どうも、僕では相手にならないらしいな。


 そう察して、包丁をずぶりと引き抜く。

 改めて刃先を確認するが、まるで藁人形を刺したみたいに濡れていないのが不気味だった。

 案外、彼女、のかもしれない。

 よくあるだろ? 目の前にいるのは分身か何かで、本体は別のどこかにいる、みたいなの。なんとなく彼女から、そういう感じがしていた。


「悪かったよ。もうしない」

『えーっ。普通、それで済む話じゃなくなーい?』

「朝ご飯を分けてやったろ」

『古くなった卵じゃろうが』

「トーストは古くないし」

『……ふん。まあ、よかろ』


 そう言って再び、アリスはとん、とん、とん、と、軽快に足音をさせて二階へと昇っていく。

 ……おいおい。本当に許しちゃったよ。

 眉間を揉む。

 あるいは今の一撃、彼女にとっては、……赤児がごねた程度のもの、なのかも知れない。


 僕は思い切り苦笑いして、その背中を追いかける。

 どうもこうも、えらいことに巻き込まれたみたいだな、と、思いつつ。

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