第4話 クォーターライフクライシス

 人生、つまり寿命を百年と仮に設定した場合。わかりやすく仮に人生百年とした場合。二十代後半の時期は、自分の人生は間違いだったのではないか。選択を間違えたのではないかと後悔したり、考えたりしてしまうことが往々にしてあるのだという。これをクォーターライフクライシスと心理学の専門用語では言うらしい。私は専門家ではないので、目にしたネット上の記事しか情報源はない。何か間違っていたらその時はご了承願いたい。



 さて、クォーターライフ、つまり人生の四分の一でのクライシス。つまり危機、難局、なにか手を打たなければ破滅してしまうような不安定な状態の事。人間誰だって悩むし、悔やむからそんなに気にしなくていいよ。皆あることなんだ。同じだから、と慰めのために使う事があるのかもしれない。だけど私はこれを知ったとき、非常にショックで、そして正しく今この状態だと思った。



 私は二十七で失業した。


 

 試用期間での契約終了だった。



 二十四歳のとき新卒正社員として全国紙の新聞配達店に入社。二年間勤めたものの、景気の悪化により店が突如閉店。業務を地元紙へ引き継ぎ、取引のあった会社の紹介を受けて四月に転職した。



 新しい会社は通信販売会社。新人だから何でもやろうと思っていたが、何もできなかった。仕事内容はほとんどがコールセンター状態のお客様対応。これが苦戦。理不尽な要求と要望。埒外の仕事と担当者毎に分担された各業務。営業、管理、社長、専務、上司。内容によってたらい回しにされ、聞けよ聞くなよ知れよ知らないの? 勉強しろ電話でろ出ろ電話電話電話。



 新聞配達店にてアナログ業務ををデジタル化へと進めるDXの勉強し、ある程度の成果を上げていた私は新しい会社でもそれを期待されて転職した。給与は横這いより少し多いくらい。年末年始含め年中無休の新聞販売店に比べれば、日祝が休みになったのはライフワークの改善だが、それでも新しい会社でまともな休みは日曜だけ。平日も二十一時過ぎまで残業の日々。社長はデジタル化のために様々なことを最近やり始めたと言っているが、結局は手入力ばかり。デジタル機具を使ってアナログ業務をしているに過ぎなかった。



 私の契約は半年間は試用期間という契約であった。四月に入社し、半年後の十月まで。しかし、実際に勤務したのは八月末まで。九月から会社に行くことができなくなった。



 鬱病。それが原因らしい。



 テレビを見ながらご飯を食べていると、いつの間にかボロボロに泣いていた自分がいた。泣いている。なぜ泣いているのかわからないほどに、ただ泣いている。やがて座っただけで、落ち着いただけで、突然降ってわいたように泣き出すようになった。



 夜も眠れなくなった。一睡もせず、目の下を真っ黒にして出社したときにはたいそう心配された。一つの夜を越えるのが難しくなった。夜が怖かった。恐ろしかった。今まで考えたことすらなかった考えだ。興奮して眠れないのではなく、怖くて眠れない。何に? 漠然とした不安。そうとしか言えない。



 やがてリストカットをするようになった。初めは見様見真似で、カッターナイフで引っ掻くようなモノで大して傷もつけられなかった。しかし、一度きれいに紙で指先を切ったかのようにすっと切れたとき。血が流れたときに思った。自分の感情を形で残せる。跡として刻むことができる。安心できる、と。



 泣き出してから数日。いよいよ辛さが苦しさに変わり、堪えるのが嫌になってきた。苦しい。なぜかわからないが、何かがずっと責め立てる。嫌だ。苦しいのは嫌だ。辛いのは、嫌だ。そこに住民税の徴収の紙が投函されているのを見たとき。ああ、もう駄目だなって思った。



 死にたいって、人生で初めて考えた。



 私は頑張れなかった。

 


 頑張ればよかったのだろうかと、仕事をやめてから何度も思う。

  


 逃げないで、踏ん張って、泣いても食いしばって。

 


 仕事だって割り切って。

 


 新聞配達時代は、これまでは仕事だって割り切ってやって来た。

 


 だからある程度の理不尽があっても仕事だって言い訳して、酒飲んで文句いえばそれで済んだ。

 

 

 何も考えず、何も感じずにやり過ごせば、まだ仕事できたのかなって、そう考える。

 

 

 生きるのは辛い。苦しい。大変だ。生きているだけでお金はかかるし、税金も払わないといけない。労働は義務であり、選択は自由だが必須科目だ。一方で死ぬことは悪と見なされ、勇気を持って逃げて生き延びてもまた仕事がこちらを見てくる。




 仕事が辛くて、逃げるようにしてなんとか仕事から離れたのに、律儀に支払いは毎月迫ってくる。



 そこまでして生きる意味はなんだろうか。そこまでやって、踏ん張って、無理矢理お金を捻出してまで生きる意味とはなんだろうか。強く生きることが正しいとされてきた日々が普通ならば、死んだほうが楽だと考えてしまうのもまた、普通の思考なのではないかと、そう思った。



 生きることを考え、意味を考え、同時に真剣に自分の死について考えた。



 死ぬことは許されない世の中で。



 いのちは大切だと、言い聞かされる世の中で。

 


 甘えだと笑われる世の中で。



 理解を期待するだけ無駄な世の中で。


 

ーー死にたい」って言う本当の意味を他者は理解できていない。そこまでの過程、感情、生死二択以外考えられない状態がわからないからだ。


 


 分からないのなら、口にするまでもない。


 

 20代後半。



 無職。



 独身。

 

 

 取り立てて特別な資格もなく、キャリアも実績もない。

 

 

 鬱で自分自身のコントロールさえままならず、


 死にたいって言いながら泣いてる。


 泣いてるってことはまだ、生きていたい証なのにな。



 楽しくないから、辛いから泣いてるだけで。

 

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