百五十四話 出発

 城ヶ崎が軽くシャワーを浴びている間、荷物の最終確認をする。


 リュックに着替え、携帯食料、財布、通帳と最低限のものを確認し、ふと部屋の机に置いた異物が目に止まる。


 真弓さんから借りたままのデジタルカメラ。

 あれから一度も使っておらず、返却しようとしても受け取ってもらえずに扱いに困った代物だ。


 こんなものはこれからの旅に必要はない。

 何の用途も思い浮かばない。


 だが、どこか心に引っかかるものがあった。


 浴室の戸が開く音がする。

 ドライヤーが稼働する風音が鳴っている間、手に持ったカメラを眺める。


 ドライヤーの音が止む。

 俺は最終的に、カメラを無造作に荷物の中に突っ込んだ。


 衣擦れの音、床を裸足で歩く音に振り返ると、そこにはわずかに艶やかに濡れた髪を垂らした城ヶ崎が立っていた。


「シャワー、ありがと……」


 服は着てきたものに着替え、先まで見ていた格好と何ら変わるところはない。

 だが、女子がシャワーを浴びた後の雰囲気というのは新鮮で、どうにも落ち着かない気分になる。

 それも、自分が普段使っているシャンプーと同じ匂いを漂わせているのがなんというかヤバい。


 俺は内心の動揺を表に出さないようにしながら、冷静ぶって立ち上がった。


「じゃあ、そろそろ出るか」

「うん」


 荷物はお互い整理できている。

 あとは出発するだけだし、悠長にしている余裕はない。


 しかし、俺は口ではすぐに出発すると言いつつも、なんだかこのままでは勿体ないような、名残惜しいような気分が押し寄せていた。


 これはなんというか、あれだ。

 別に今更怖気付いたとかそういうのではない。

 

 そうではなく。

 俺は今、城ヶ崎が目の前にいるという事実に理性が耐えられず、このまま何もせずに次の行動に移ることに抵抗があるのだ。


「?」


 俺は立ち上がったまま城ヶ崎の手を取る。

 城ヶ崎は意図がわからず、首を小さく傾げて俺を見上げた。


 軽く触れ、握った手を持ち上げて、次はその肘を取る。

 城ヶ崎はなおさらよくわかっていない様子だったが、俺自身も自分が何をしたいのかわからないままだった。


 最後に両肩を手で掴んで、二人で正面から向かい合うようになる。

 いつの間にか自分が逃げられない体勢になっていることに気づいた城ヶ崎は、目を瞬かせながら顔を赤らめる。


「目、つむって」

「……っ」


 驚いた顔をしたものの、城ヶ崎は意外と素直に言うことを聞いた。


 唇を重ね合わせるだけの軽い口づけ。

 身長差がだいぶあるので屈む必要があったが、よくみると城ヶ崎も背伸びをしているのがわかった。


 数秒では足りなくて、一度離してからもう一度を繰り返し、十秒か二十秒かしていたように思う。


 城ヶ崎の薄い桃色の唇は柔らかく、錯覚なのかなんだか甘いような気がして、時間が許すならずっとしていたかった。


 唇を離すと、時間差で城ヶ崎が怒りだす。


「きゅ、急に……」

「あとでやり直すって言っただろ」


 グーで胸のあたりを殴られた。

 全然痛くなく、むしろ心地が良かった。


 ♢


 予定通り、最寄駅ではなく一つズレた駅まで原付で向かった。


 道中、コンビニで預金を下ろし、有り金すべて現金化した上での到着だ。


 原付は駅に乗り捨てることとなる。

 公共の迷惑にはなるが、罪はすでに犯しているのでもはやそんな配慮などしていられない。


 これは元々そういう旅だ。


「あ、そこ立ってくれ」


 乗車券を買った城ヶ崎を呼び止めると、「は?」という顔をされる。

 

 俺もなんでこんなことを、と思うが思いついたのだから仕方がない。


「カメラあるから、せっかくだし記録残しとこうと思ってな」


 いよいよこれから始まるのだ。

 それはいつ終わるとも知れず、何がどうなるかまったく予測できない、正直言って不安定な旅だ。


 それを一つ一つ確かな記録として残していけば、多少はその不安定さが軽減できるのではないかと考えた。


「はぁ」


 城ヶ崎は不服そうにしながらも、駅名の書いてある表札の前に立った。


「はい、チーズ」


 まったく笑顔を浮かべず、じとーっとした表情の城ヶ崎が写った。


「出発記念だな」

「ふん、一人で写っても何の写真だかわからないよ」


 まあ、確かにな。

 とはいえ、いちいち通行人にお願いするのも面倒だし、変なきっかけで通報でもされたらたまったものではない。


「また落ち着いたら二人で撮ればいい」


 今後はそれも可能だろう。

 カメラを仕舞うと、改札の方を見て神妙な顔をしている城ヶ崎の横顔が目に入る。


 俺は何かを言おうとして、しかし思いとどまった。

 

 この改札を抜ければ、ついに一線を超えることになる。

 無計画で不安定で、結局何の救いもないかもしれない、そんな明日を選ぶことになる。


 今ならまだ間に合う。

 ただ遊んでいたといえば済む話だ。


「じゃ、行くか」

「……うん」


 今さら「やっぱり帰ろう」などとは言えない。

 これは俺の我儘でしかないが、城ヶ崎には共犯を持ちかけたのだ。

 主犯である俺が、尻込みしたようなことを言うのは論外だ。


 俺が歩を進めれば、城ヶ崎もついてくる。


 この旅に行く当てはない。

 ただ遠くへ行くことを目的として、俺と城ヶ崎は改札へと踏み出した。

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