百五十一話 逃亡

 終わりを迎えつつある夕焼けを背に、俺は学校から出て海岸沿いの道を原付で走っていた。


 学校を出る直前に柊木先生に話があると声をかけられたが、また今度にしてほしいといって断った。

 

 一刻を焦る必要はない。

 むしろ、本来なら周到に用意してから行動すべきだろう。

 だが、決断したからには体をいち早く動かさなければ気が済まなかった。


 明日でも、1週間後でもなく、ましてそれより未来でもなく、今だ。

 俺はたったこの瞬間のために行動していると、そういう感覚があった。


 幾度か通ったルートで、城ヶ崎の自宅がある道に入る。

 目的地に着いた頃には夕日はほとんど沈み、あたりは薄暗くなってきていた。


 相変わらず大きな邸宅だ。

 遠慮なく家の前に原付を停めさせてもらった。


 おそらく城ヶ崎母の所有である赤い車はない。

 俺はひとまず安堵し、ヘルメットを脱ぎ、すぐにインターホンを押す。


 数秒の沈黙がやけに長く感じた。

 やがて、音声が繋がった音とともに無機質な少女の声が聞こえてくる。


『……はい』

「榊だ。今出られるか?」


 俺が名乗るとすぐに音声は切れた。


 城ヶ崎が出たということは、やはり母親はいないのだろう。

 叔母の方はわからないが。


 ベランダの方を見るも、煙草を吸う姿は確認できなかった。


 まもなくしてガチャリと扉が開く。

 まだセーラー服を着たままの小柄な少女──城ヶ崎透子が扉の間から慎重に姿を覗かせてきた。


「どうしたの?」


 その訝しんだ声と表情には明らかに「なぜ来たのか」という意図が込められていた。

 単に理由を聞いているのではなく、もう終わらせた関係なのにという、責めるようなニュアンスだ。


 だがそんなことは俺も承知でここへ来ている。

 今更怖気付くということもない。


「悪いな突然。お前に訊きたいことがあったんだ」


 玄関前の階段を上り、話しやすい距離まで歩を進める。


 だが近づくのは扉の前まで。

 城ヶ崎は警戒するように扉を半開きにしたまま俺を見たが、中に入ろうとかそんなことは思っちゃいない。


 理想を言えば、ここから何も言わずに連れ出した後、やりとりをするのがベストではあるのだが、まず無理な話だろう。


 ひとまずはこの場で話をするしかない。


「何?」

「今さらなんだが、そもそもお前って、母親について行きたいのか?」


 城ヶ崎は目を瞬き、急に何を言い出すんだというように眉を顰める。


 終わった話をほじくり返しているように思われたのだろう。

 城ヶ崎は一つため息をつき、持つのが重くなったのか半開きの扉を揺らして答える。


「一緒にいたいとは思うよ。母には感謝しているからね」


 予想できた返事だったが、いざ素直に言葉にされると躊躇うものがあった。

 特に、これからすることを思うと心に冷たいものが蝕んでくる。


 とはいえ、まだその言い方にはこちらが付け入る隙のようなものがあった。


「そうか。まるで母親のために仕方なく、できれば行きたくないというような口ぶりだが……本当にそういう解釈でいいのか?」


 我ながらくどい確認の仕方だ。

 だがこれは俺にとってはある意味最重要とも言える確認事項だ。


 案の定意図を掴みかねた城ヶ崎は、何かを疑うような眼差しを俺に向ける。


 しかし、疑問などよりも強く感じ取れたのは、反発的な態度だった。


「それは、そうさ。そんなことは当たり前だろう」


 無論、俺は城ヶ崎が怒りを感じることもわかっていた。


 本音ではイギリスに行きたくはないからこそ悩みに悩んで、結局どうしようもなくなって、今に至るのだ。

 それを終わった後からまるで言質を取るような言動をされたところで意味不明だし、苦悩や決断に茶々を入れられたような気になってもおかしくない。


「僕だって、できることならここにいたい……でもどうしようもなかった。仕方がない。何度も話したはず」


 城ヶ崎の視線は伏せられ、悔いるような、無理やり自身を納得させるように表情を歪めて、言葉を吐き出す。


 だからこそ、俺はここへ来た。


「行きたくないなら、なぜ行く?」


 俺のシンプルな問いかけに、城ヶ崎は戸惑いを隠さなかった。


「……は? 何を言ってるの」


 当然の反応だ。

 行きたくなくても行かなければならないという話を再三しているのに、何を言い出すんだこいつはと思われても仕方がない。


 だが実際、どうしてなんだ?

 無論、さすがにこの歳になれば、世の中にはどうしようもないことが沢山あるというのは理解できる。

 

 叶わない夢の方が多く、大人になるにつれ願望を抱くことも次第に少なくなっていく。

 非現実的で子どもじみた夢だけでなく、事の大小に関わらず人は現実との折り合いをつけてその中で生きていくしかない。


 俺だってその程度のことはわかっている。

 

 そして今この時、俺たちはまさに現実、あるいは大人の事情とやらに負けようとしている。


 それはどうしようもないことで、諦めなければならないことだというが……


 だが、本当にそこまで無理な話なのか?

 一緒にいたいというのは、そこまで諦めなければならないような、子供の無茶な我儘なのか?


 城ヶ崎は行きたくないのだという。

 俺も城ヶ崎に行って欲しくない。


 それなら、なぜ負けてやらないとならない?

 なぜ俺や城ヶ崎が願望を曲げて、現実に屈してやらなければならない?


 俺はそれが納得できない。

 家庭の事情だか仕事の事情だかなんだか知らないが、そんなことのために負けてやる意味がわからない。


 そう、俺は負けたくないのだ。

 負けてなるものかと、今まで俺はずっと思ってきた。


 そして、それは目の前の少女も同じなのだと信じてやまなかった。


「なあ、城ヶ崎」


 俺は扉を開けたまま支えていた城ヶ崎の片腕を掴んだ。

 支えのなくなった扉は代わりに俺の腕で押さえる。


 驚くくらい細い手首だったが、逃げて欲しくないから、少し無造作すぎるくらいに強く握った。


 城ヶ崎は驚きの表情を湛え、俺に濡れた瞳を向ける。


「まず初めに言っておく。これは俺が決めたことで、悪いがお前の意志は関係ない」


 自分で言っていて、その矛盾に苦笑したくなる。


 俺の言葉どおりなら、先ほどのやりとりをする必要がない。

 だがあえて質問したのは、大義名分を少しでも得て、己の罪悪感を軽くするためだろうか。

 それとも関係ないといいつつ、城ヶ崎の気持ちを確認しないと実際に動けなかったからか。


 いや、もはやなんでもいい。

 俺はこれから、自分の願望を叶えるために、自分の決めたことを実行するだけなのだから。


 十分すぎるくらいの時間があり、もはや深呼吸の必要さえない。

 あとはその覚悟を口にするだけだった。


「俺はお前を攫いにきた。一緒に逃げよう」


 城ヶ崎は目を大きく見張り、息を呑んだ。

 驚きか、動揺か、そしてそれ以外のなにかか、綺麗な両の瞳が今にも泣き出しそうに揺れる。


「どこか遠いところまで。誰も追ってこない場所まで」


 どこまでも愚かな誘い文句だ。

 そんな場所は存在しない。奇跡的にあったとしても、ろくな生活が待っているはずもない。


 何の冗談を言っているのだと、一笑に付される可能性もあった。

 仮に本気に受け取ったとしても、誰がそんな来るとわかっている破滅の道に共に行こうというのかと。

 頭のおかしい提案をする人間に本心から愛想を尽かす、という場合も覚悟していた。


 しかし、城ヶ崎は少なくとも即座に拒絶するような反応は見せなかった。


 さまざまな逡巡、何かを言おうとする唇の動きを経て、それでもその何かは言葉にならず、城ヶ崎はじっと考えるように顔を伏せた。


 その沈黙が、おそろしく長く感じる。


 だが今のところ、少なくとも、怯えたり、逃げようという風には見えない。

 俺の視界が自分の都合の良いように歪んでいなければ、だが。


 城ヶ崎は永遠ともとれるような間の後──本当はたった数秒だったのかもしれないが、ようやく口を開いた。


「……わかった。行く」


 ♢


「やぁやぁ、おひさだね〜少年」


 城ヶ崎が最低限の身支度を整えると言ったので、外で待っていることにしていると、ベランダにはいつの間にか真弓さんの姿があった。


 真弓さんの格好は寒くないのか、首周りや肩、腕と素肌を晒したブラウス一枚に下は古びたジーパン。

 豊満な胸元を晒していて、もしこんな状況でなく、間近で見たならば落ち着かない格好だったことだろう。


 片手にはビール、片手には煙草という不健康不健全尽くしの真弓さんはベランダの欄干にしなだれかかり、アルコールのせいだろう、その白い頬は上気しており、瞳はとろんと蕩けている。


「ヒック、うぃ〜」


 もはや体重を支えることすら怠そうに体をくねらせ、真弓さんは一度空を仰ぎ見る。

 よく見るとベランダの床にはビール缶がいくつも転がっており、酒気が風に流されてこちらまで漂ってきそうだった。


「こんな時間にぃ、あの子どこに連れてく気〜?」


 だらしのない、ぐにゃぐにゃの声でありながら、真弓さんは的確に今一番聞かれたくないことを口にした。


 思わず舌打ちしそうになるが、無駄に心象を悪くする必要はない。


 この人は城ヶ崎の叔母であるが、腹の読めないところがある。

 本人は可愛がっている風な素振りを見せるが、実際はどうなのか。


 心の底では自分の姪のことにさほど興味関心がなく、はっきり言わなければバレないかもしれない。

 あるいは気づいたとしても、見逃してくれる可能性だってあった。


 どちらにせよ、一番の障壁である母親がいない以上、真弓さんからすぐさま母親へ通報がいくようなことがなければこの場はクリアなのだ。


 俺はひとまず、当たり障りのない言い訳を考える。


「まあ、ちょっと街に遊びにでも行こうかと」

「うっそだ〜」


 なぜ嘘だとわかるのか。

 と、冷静に考えれば当然思い当たるだろう事実を、俺が言うまでに真弓さんが言葉にした。


「二人で逃げるんだろ〜?」

「……聞いてたんですか」


 後悔はしていないつもりだが、第三者に聞かれていたことに思わず赤面してしまう。


 だが夜の気配が漂い出した冷たい風に、すぐに頭は切り替わる。

 この場をどう切り抜けるかということに。


 しかし真弓さんはさほど態度を変えることなく、体をこちらに向けて目線を投げてきた。


 どこか蠱惑的な、見る者を惹き込むゆえに逆に警戒させるような眼差しだ。


「そう身構えなくてもいいじゃん、酔っ払いが男子高校生止められると思う?」


 確かに、力づくで止められることはないだろう。

 あの酩酊具合だと、まっすぐ歩くことすら怪しいレベルだ。


 だが、そうでなくとも取られると厄介な行動はある。


「母親や警察に連絡がいくと困るんで」

「あ〜、それならもうしたよ」

「……!」


 それはまずい。

 あまり急かしたくはなかったが、城ヶ崎に言って一刻も早くこの場から立ち去らないと──


 一瞬のうちに考え、足が一歩目を踏み出す直前、真弓さんの笑い声が割って入った。


「あははははっ! うっそぴょん。冗談だって。引っかかってやんの」


 コイツ……

 城ヶ崎にちょっと似てるからって調子に乗りやがって。

 その歳でぴょんとか全然可愛くねえんだよ。


 などと言うわけにもいかず、心の中の掃き溜めに吐き捨てるだけにしておく。


「大丈夫。そんなことしないって。まぁ、妹に聞かれたら答えるけどね」


 答えないでほしいところだが、それ以上は高望みだろう。

 今すぐ通報しないというだけ、むしろありがたい話だ。


 カッとなった感情をぐっと堪え、冷静さを取り戻すために深く呼吸し、冷気を肺に含んだ。


 真弓さんが即座に反対しないのであれば、今後のために聞いておきたいこともできる。


「妹さんは……何時ごろ帰るんですか?」

「そこはお母さんって呼びなよ。うーん、その日の残業にもよるからなぁ。遅い日は夜10時とかにもなるよ。早い日は6時くらいかなぁ」


 反対しないのは本当のようで、あっさりと答える素振りをみせる真弓さん。


 嘘か真実かは断定できない。

 だが、雰囲気からはなんとなく嘘はついていないように見えた。


 城ヶ崎の母親がいつ帰るかによって、見つかる可能性がまったく変わってくる。

 後で城ヶ崎に聞けばわかる情報だが、今知るのと後で知るのとでは状況が違うだろう。

 それをわからないわけではないだろうが、真弓さんの態度はあまりに無頓着だ。


「一応聞くんですけど、本当に見逃してくれるんですか」


 今は見逃しても、見送った直後に連絡して、すぐ捕まるように手配する。

 あるいは実は本当に通報済みであり、母親や警察が来るまでの時間稼ぎをしている、などが考えられる。


 疑心暗鬼かもしれないが、ただでさえ状況が状況なのだ。

 真弓さんが俺たちを騙している場合、素直に答えるとは思えないが、訊かずにはいられなかった。


「何〜、私が信じられないってわけか」

 

 真弓さんはそんな俺の猜疑心を嘲笑うかのように、笑みを湛えて缶を呷った。

 酒精混じりの息を吐き、思ったより量がなかったのか、缶の底を覗き込みながら、ついでのように言葉を発する。


「ま、君ら見てるとムカつくからそれが態度に出ちゃってる、かも、ね」


 おどけた口調だが、その瞳にはぞっと背筋の凍るものがあった。

 缶の底から俺の方に移ってきた視線には、これまでに真弓さんが一度も見せたことがないほどの──侮蔑の色が宿っていたからだ。


「君さ、今どきね、駆け落ちとか、明日無き逃避行? っていうの? やるもんじゃないよ」


 古い古い、と小馬鹿にしたように真弓さんは軽く笑う。

 

「新しいとか古いで行動してないですから」


 それは心の底から思っていることだが、冷静に考えれば真に受けて答える必要もない。


 始まったのは単なる真弓さんのいつもの癖、嫌味な態度を取って反応を面白がっているだけなのだから。


 だがそれを頭ではわかっていても、つい反応を示してしまう。


「ふーん、でも実際、本気で良い解決策だと思ってるわけじゃないでしょ?」

「でも、これしかねえんだよ」


 思わず、語気が乱れた。

 その反応を見て、真弓さんがしてやったりという顔をする。


「だからそこがダメなんだよ。しょせん子供なんだよ。現実的な範囲内で選択肢を取らなきゃ」


 現実的な範囲?

 そんなものに何の意味ある。

 あいつが突然海外に行って会えなくなるだなんて話が、現実的な範囲だとでも?


「今は辛くても、我慢して大人になればきっとなんとかなるよ」


 本当にそうか?

 このまま我慢して、会えなくなって、それで本当にいいのか?


 諦めて大人になって、あのときあんな馬鹿なことしなくてよかったとか、クソみたいな回想をして、城ヶ崎が傷ついて転校していくのを黙って見過ごすようなクソ判断を、仕方なかった、それがベターだった、で済ませるのか?


 この俺の最低な気分をぐっと抑え込んで、いつかは沈静化して、それで済ませるのか?


 もしかするとまた会えるかもしれない。

 それはそうなのだろう。

 だが、もしかするとではダメなのだ。


 今諦めた先にいる未来の俺は、もはや俺ではない。

 このたった今感じている、最低最悪な気持ちをなかったことにしていいわけがない。


「君はその行動を取ることで、本当にあの子をきちんと愛しているとでも? 言ったよね? 他人の愛し方がわからない子がいるって。君もそう?」


 知らねえよ。

 愛だの何だの。

 俺はそんなメルヘンな気持ちでここにいるんじゃねえよ。


「ただの憐れみってやつじゃないの?」


 知るか。

 俺がここにいるのは──


「ごめん、待たせた」


 私服に着替え、膨らんだリュックを背負った城ヶ崎が玄関から出てきた。

 城ヶ崎は俺と真弓さんを見合わせ、何事かという表情をしている。


 そしてやはり他人に見られるのはまずいという恐れからか、真弓さんからはすぐに目を逸らして俺のそばまで駆け寄った。


「原付でいく。ヘルメット被ってくれ」


 足早に原付に跨り、後部座席に城ヶ崎を乗せた。


「待ちなよ少年」


 ベランダからは少し離れ、エンジン音がかかったにもかかわらず、真弓さんの声はよく通った。


「永遠でもなければ真実でもない。ただいっときの感傷のために君は人生を台無しにするつもりか?」


 その声には、最初のおちゃらけた雰囲気は一切ない。

 もし油断していれば、もし心が弱っていれば、向けられた者の意志を砕きかねないほどの鋭さがそこにはあった。


「だからやるんだよ。今だけだからやるんだ」


 俺は真弓さんの反応を待つことなく、振り返らずに駆け出した。


 ♢


 遠ざかっていく二人の背中を見ながら、ニコチンを肺に吸い込む。


「久しぶりに演技なんてやったなぁ」


 まともな大人なら、きちんと止めるべきだっただろう。

 説得でも、通報でも、あらゆる手を尽くして。


 止めるでもなく、それでも喧嘩を売るように言葉を交わしたのは、自己満足以外の何者でもなかった。


 彼の意志を確かめたかったのもある。

 愚かと切って捨てるのは簡単だったが、彼なりの言葉を聞きたかった。


 思春期である彼らを煽って、自尊心を傷つけ、それで思い止まってくれるならば、それはそれで彼らの安全は確保されるのだからよかった。


 だが、結果として彼らは止まることがなかった。

 それを心のどこかで嬉しく……いや、羨ましいと思う自分がいた。


 自分がダメ人間だからか、それともまだ精神が大人になりきれていないゆえなのか。

 その両方か。


「事故だけはすんなよ」


 二人を身を案じた、誰にも聞き届けられない自己満足の呟きが、煙草の煙に消えていった。

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