百五十話 後輩

 ここ数日、いろいろな連中がこの部室を訪ねてきた。

 誰も彼もが好き勝手なことを言い、俺の心を掻き乱した。


 ただでさえ最悪の気分だというのに。


 だが今、俺の頭の中で巡っているのは、部室を訪れた彼らとは別の人の言葉だ。


『学校とか、家庭とか、彼女とか、そんなものがすべてだと思うのはよせ』

『小さなことを大きく捉えるな』


 柊木先生がこの間俺を呼び出した時の話だ。


 俺はそれを聞いて以来、思い出すたびに繰り返し繰り返し自分に問うている。


 俺は城ヶ崎透子を人生のすべてだと思っているのか?

 このまま彼女が去るのを放置したとして、俺の人生は台無しになってしまうほど立ち直れなくなるのか?


 答えは、否だ。

 冷静に考えれば、そんなわけがないことはわかる。

 俺の人生において、彼女の存在がいなくなったとしても、俺が死んでしまうとか、精神を病んでしまうなんてことはおそらくないはずだ。


 例えばそれが長年連れ添った妻で、フィクションのように突然誰かに殺されてしまったとしたら、なんて極端な話であれば別かもしれない。

 だが、実際そんなことは起こらないし、起きたとしても自分の人生がそれで失われてしまうかというとそうとも限らないだろう。


 つまり、このまま終わってしまって、今後城ヶ崎と一度も会うことがなかったとして。


 俺は相当に落ち込み、精神的な傷を負い、何度もあいつの顔を思い出すだろうが……いつかは立ち直り、生きるために働いて、日常をやり過ごしていくのだろう。


 そして大人になって、そういえば昔、短い間だが付き合っていた女の子がいて……などと酒を飲みながら誰かに話すことがあるのかもしれない……。


 いや、もっと別のルートもあるだろう。


 会えないにしても、城ヶ崎と連絡を取り続ける未来だ。

 もはや恋人としては別れているため、難しいかもしれないが、交渉すれば手紙のやりとりくらいは許してくれるかもしれない。

 いや、それも相当難航するだろうが、なんとか説得したとして。

 

 手紙のやりとりで、何を伝えるんだろうか。

 例えば、お前が今も変わらず好きだなどという恥ずかしい日本語を書き込むのだろうか。それとも簡単な現状報告だけだろうか。

 あいつは手紙の返事を書いてくれるだろうか。その保証もない。あいつが壁を作ったときの取り付く島のなさは半端ではない。別れた以上、おそらくなしのつぶてになる可能性の方が高いだろう。


 だがそれでも少ない確率で返事がくるかもしれない。

 俺はいつ返ってくるかもわからない手紙にやきもきしながら、大学へ進み、就職し、いろいろな人と出会いながらも、城ヶ崎を忘れられず、独り身で生きるのだ。なんとも悲劇的だな。


 そしていつかはあいつの顔も思い出せなくなるくらいに時が経ち、そういえば昔、短い間だが付き合っていた女の子がいて……などと酒を飲みながら誰かに……


 クソが。

 やめだもうこんなことは。

 想像するくらいなら、気を失った方がマシだ。


「きぐう、ですね」


 あまりにクソな想像をしていたせいで、部室の扉が開いた気配にも気が付かなかった。


 そこに立っていたのは、中途半端に染まった狐色の長い髪を下げた女──古賀南だった。


 相変わらず、どこに意識を向けているのかわかりづらい無表情だ。


「……奇遇ではないだろ」


 明らかにこの部室に来てるんだから、偶然もあったものじゃない。


 だが、古賀にそのあたりを説明しても意味がなさそうだ。

 それに、なぜこいつがこんなところにいるのか、なぜこの場所を知っているのか、蘭島先輩はどうしたのか等、気になることは他にもあった。


 だが気になるだけで、それを言葉にして伝えるのがとんでもなく億劫だ。


 それは古賀と話すのが難しいというより、単に俺の気力の問題だった。


「暗いです、この部屋」


 古賀は扉の横の壁にある電気のスイッチに触れ、明かりをつけた。

 来客がなければ俺一人で考え事するだけなのだから、照明は不要だと判断したまでだ。


 電気がついても古賀の無表情は変わらなかったが、その奥に人の気配、というよりスカートの裾と茶髪が見て取れた。

 

「わたし、まひるについてきたんです」

「ええっ!? なんで言うんですか!」

「?」


 有原か。声ですぐにわかった。

 なぜ俺から隠れているのか、とかどういう関係だ、とかそんな疑問が思い浮かぶ。


 いつの間に、仲良くなったのだろうか。


「まひるが元気がないので、わたしは、あなたに会ったほうがいいと思ったのです」

「うぇ! そんな、みなちゃんが部室に来たいって言ったんだよね?!」


 有原が姿を隠すのも忘れ、古賀にツッコミを入れる。

 どうやら、コミュニケーションのすれ違いがあったらしい。


 ただし、古賀の方からはむしろ予定通りというような落ち着きが感じられる。いや、古賀が考える本当のところなど全然他人からはわからないが。


「あ、楓先輩、あの、ですね、わたしは別に……」


 一歩部室の中に入り、珍しくもじもじしながら何かを弁明しようとする有原。

 しかし、それを遮るように、あるいはまったく歯牙にも掛けないように、古賀の声が挟まってきた。


「では、わたしは帰ります。お話、してください」

「ええ〜!?」


 有原の幾度目かの驚きのリアクションを聞きもせず、古賀は立ち去って行った。


 ご丁寧に扉を閉め、有原と俺だけを残して。

 

「もぅ〜、なんなんですか」

「それは俺の台詞だ」


 いったいなんの成り行きだ。

 聞きたい疑問は全然解消されていないし。


 とはいえ、有原とせっかく久しぶりに顔を合わせたというのもある。

 有原とは部室で城ヶ崎と三人で会って以来、一度も会っていない。


 おそらく、避けられていたのだろう。

 ここ数日、俺が部室に入り浸っても一度も来なかったのは、それは単に用事があったなどの理由ではないのは明白だ。


 だがそれでも、有原とはきちんと話したいというのが俺の中では大きかった。


 かといって、俺から何と話しかけていいかもわからない。


 有原も気まずそうで、いつもの自分の席には座らず、遠慮がちに扉の前で佇んだままだ。


「先輩、最近どうですか」

「まぁ、ぼちぼちだな」


 ぎこちないやりとり。

 だが、やはり馴染みのある声だ。


 それゆえに、有原が平素では見せない感情が込められているのがわかる。


「嘘ですよ。全然そんな感じじゃないです」


 苦笑にも似た笑みだが、それはほとんど怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。


 有原の大きな瞳が今にも泣き出しそうに濡れている。


「なんで、そんなになってるんですか」

「なんでって……お前ならわかるだろ」


 我ながら、傲慢だ。

 傲慢すぎる台詞だ。


 それでも、有原だけは、この部のたった一人の後輩だけは、俺の気持ちを察するくらいはできると思っていた。


 しかし、そんな俺の勝手な押し付けは、当の本人の言葉が否定する。


「わからないですよ……! なんで先輩がそんな顔して、こんな暗い部屋にいるかなんて!」


 有原はもはや、怒りの感情を隠さなくなっていた。

 腰まである長い髪が揺れ、悲痛な叫びが床に叩きつけられる。


「まるで、病気の人みたいです」


 涙ぐみ、かすれた声。


 はっきり言われなくてもわかる。

 有原は、俺を心配してくれているのだ。


「自分だけが辛いみたいな顔して、そんな思い詰めて、なんなんですか、楓先輩は……!」

「いや、だからそれは、俺はあいつが──」


 掛ける言葉を上手く言えないでいる俺に、有原ははっきりと吐き出した。


「わたしだって、透子先輩が好きですよっ!!」


 それは感情のままに放たれた言葉だった。


「わたしだって行ってほしくないですよ! でも、そんなこと言ったらわたしはどうせあと1年だったんですよ。先輩たちは特別だからいいけど、わたしはずっと会えるなんて最初から思ってないですよっ!!」


 一度堰を切った感情は止まらない。

 正の感情も負の感情も、すべてがぶつけられる。

 自分を、あるいは俺を元気付けるために笑顔も交えて、しかし涙は溢れて止まなかった。


 途中からは、笑みを浮かべることはなく、まるで懺悔のように。


「だって……だって……そういうものじゃないですか。しょせん、他人じゃないですか。なんで、先輩がそんなふうに辛くならないといけないんですか……」


 それでも、俺を思いやる言葉を有原は投げかけた。


 声は枯れ、嗚咽ばかりになっても、冷たいと取られるような言い方を選んでも。


「これで終わりだなんて、誰が言ったんですか……終わりだとしても、笑顔でさよならしたらいいじゃないですか……そうしたら、もしかしたら、いつか……」


 床に泣き崩れた有原は、感情の全てを出し尽くしたように俯いた。

 

 俺はようやく結論を出し……いや、覚悟を決めて、次にかける言葉を決めた。


「そうだな、終わりだなんて、わからねえよな」


 有原のそばに寄り、頭に軽く手を置く。

 親愛の情的には抱きしめてやりたいが、それは別の奴の役目だ。


 狭い部室に、有原の嗚咽が響く。


 有原は、有原で折り合いをつけていた。

 俺なんかより、よっぽど大人なんだ。


 俺のために、終わりじゃないかもしれないと、そう言ってくれた。


「でも、終わりなんだよ」


 わかってるんだ。

 離れれば、あいつとの関係は続かない。

 

 お互い、人の縁を切るには慣れっこの同類だ。

 絶対にうまくいかないという自信がある。


 例えば1年や2年我慢すれば必ず帰ってくるというような保証があればいいが、そんなものはない。

 そんな口約束をしたとしても、そんなものに意味などない。


 だから、終わりだ。

 俺と彼女の関係は。


「このままじゃ、な」

「……え?」


 だが有原、お前が最後に来てくれてよかった。

 

 最後の踏ん切り。

 ずっと考えていたことを実行に移す最後の覚悟のようなものを、有原が決めさせてくれた。


 いや、有原のせいにするのはダメだ。

 俺が決めたことであり、有原の責任などはこれっぽっちもない。


 ただ単に、きっと俺は。

 最後に、城ヶ崎と有原と、三人で過ごした、この部活、この部室に別れを告げたかっただけなのだろう。


 それが今ようやくわかった。

 だから、俺はこの部屋から出て行かなくてはならない。


 たった一人の後輩の頭を、最後に軽く撫でる。


「お前はこの部室にはもう来なくていい」

「っ……!」


 言葉の本当の意味をあえて伝えることはしない。


 しかし有原は何かを悟ったのか、声を失い、項垂れた。


 数歩進み、部室を出て、扉を閉める。

 俺は一つ大きな深呼吸をする。


 緊張から解放されたからではない。

 これから自分がやることへの心構えだ。


 やると決めたからには、まず準備が必要だ。


 俺は一人、誰もいない廊下を駆け出した。

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