百四十六話 バレンタインチョコ
「おやおや、榊君。こんなおばさんに何の用かな」
土曜の夜、透子の家の近くで待ち伏せていると、真弓さんがコンビニ袋を提げて姿を現した。
最後の頼みの綱が、透子の叔母である真弓さんだった。
「寒かったでしょ。家に寄ってきな」
「ここで大丈夫です」
長い話をするつもりはない。
この人のスタンスを確かめにきたのだ。
俺は単刀直入に切り出した。
「真弓さんは日本に残るんですよね? なんで透子を預からないんですか?」
「えー?」
真弓さんはおどけるような表情で目を逸らす。
「だって無理でしょ。私が子育ての責任取れるように思える?」
確かにこの人はダメ人間だし、娘を預けたくないという感覚もわからないではない。
だが、この人が透子を預かると言ってくれなければ、もはや解決策は思い浮かばなかった。
「お金は母親に送ってもらったらいいじゃないですか」
「簡単に言うねー、まぁ実際するとしたらそうなるんだけど。でも、責任を取るっていうのはお金のことだけじゃないよ?」
それは俺もわかっている。
それでもこの人になんとかしてもらうしかない。
だが、そんな俺を嘲笑うように真弓さんはあっけらかんと言った。
「私は旅に出るつもりよん。定住なんてするつもりないわ」
「は……?」
この期に及んで、何を言い出すかと思えば。
自由奔放な生き方といえば聴こえがいいが、この場で出てくる話題とは思えなかった。
「だから私が預かるとしても透子は転校する羽目になるわね。一、二ヶ月ごとくらいに」
「いや、何言ってんすか」
冗談を言っているようにしか見えなかった。
いや、現に冗談なのだ。
この人は透子に対して、何かしら責任を取ろうなどとは一ミリも考えていない。
「まぁまぁ、寂しいのはわかるけど、もう高校三年生になるんだよ? 大学生になったら帰ってくるかもしれないじゃん」
「それは……」
その話も、既にしているが。
母親はあくまでイギリス国内での進学を勧めているそうだ。
帰ってくる保証はない。
「まぁなんとかなるって。がんばりな少年」
「……」
「うぃ、さむさむ」
真弓さんは逃げるように家に帰っていった。
♢
2月14日。
バレンタインデー。
クラスはどこか浮き足立っていたが、俺にはまったくそんな気分にはなれなかった。
授業も雑談も頭を通り抜けていくだけで記憶に残らない。
放課後になる前のただの待ち時間。
あるいは確実に関係を失うまでの時間。
カウントダウンは止まらず、無為に過ぎていくだけ。
「少し、時間いい?」
ホームルームの終わり、透子が久しぶりに教室で話しかけてきた。
透子についていく形で教室を出る。
「どこいくんだ?」
「内緒」
そう言いつつ、これは部室に行くルートだ。
最近は部活も行っていないから、久々に顔を出せということだろうか。
「着いたよ」
案の定、そこは幽霊部の部室だった。
馬鹿げた名前だと、今でも思う。
有原の姿はないようだった。
扉を閉め、二人だけの空間ができあがる。
「なんだ? 久々にホラー映画でも観るのか?」
だが、透子は首を横に振った。
苦味の混じった微笑を見せる。
「今日はバレンタインデーだよ」
透子は部屋の中央に歩いていく。
振り返って、透子は鞄から何かを取り出した。
「これ、いらない?」
「え、それは」
「チョコに決まってるじゃないか」
頭ではわかっていたが、その物を見るまで全く意識できていなかった。
そう、今日はバレンタインデーだ。
恋人がいる者としては、重大なイベント。
忘れてはいなかったが……なぜもっと意識しなかったんだろう。
「いる。欲しい」
「ふっ、仕方ないね」
俺が近づくと、透子はチョコを手渡してきた。
ピンクでラッピングされた包装でよく見えないが、小さなブラウニーがいくつか入っているようだった。
「もしかして、手作り?」
「そうだよ。既製品より味が落ちて君には悪いけどね」
「いや、そんなことはない。すげえ嬉しい」
男子高校生的には、手作りは嬉しい。
いや、自分のためにわざわざ用意してくれたのなら、既製品だろうと嬉しいのだ。
「今、食べてもいいか」
「うん」
透子が柔らかく微笑む。
こんな表情は、いつぶりだろうか。
椅子を2つ並べて、隣にして座る。
ラッピングをはがすと、少しだけ形が歪なブラウニーが姿を見せた。
「ん、うまい」
「ほんとう?」
「ああ、うまい」
うまい、しか語彙がなかったが、本音だ。
甘すぎず、苦くもなく、俺の好みな感じだった。
「やっと、恋人らしいことできたかも」
そう呟く透子の首元には、俺があげたネックレス。
窓から覗く夕陽に照らされて光っている。
「確かに、らしいイベントっていえばそうだな」
「うん、君がもっとがっついてくれたら、もっとらしいことできたのに」
「……」
何のダメ出しだよ。
なんて反応したらいいかもわからん。
「君に謝らなくちゃいけないことがある」
不意に、透子は話の流れを変えた。
髪を耳にかける仕草が気まずそうになされる。
「転校のこと……君の言う通り、もっと早く言っておけばよかった」
「いや、あれは俺の言い間違いだ。本当はそんなこと思ってない」
透子のせいにするつもりなどなかった。
焦燥感に負けて、相手の気持ちも考えず、下手な責任転嫁がしたいんじゃなかった。
「でも、少し言い訳させてほしいんだ」
だが、俺の言い分を聞いているのかいないのか、透子は自嘲気味に笑う。
「僕がそのことを知ったのも去年の秋だった。君と付き合えて、浮かれていたときだった」
だとすると、元々あまりに時間がない。
その時点で俺に打ち明けていたとしても、今と状況はあまり変わらなかったかもしれない。
「その時はどうにかなる、自分のことは自分で決められるとたかを括っていた。でも現実は上手くいかない」
訥々と話していく透子を、俺は見守るしかできなかった。
「母の再婚はどちらかというと仕事関係なんだよ。僕の祖父が創業した会社があるんだけれどね、その関係で、母がイギリスの子会社に役員として転勤するというわけさ。新しい夫と働くために」
そんな大人の事情がなぜ透子に、なぜ俺たちに押しつけられなければならないんだ。
怒りが湧いたが、それも一瞬で虚しくなった。
「せめてこの2月までに説得したかったけど、ダメだった」
2月がギリギリのタイムリミット。
いや、これが仮に今年の夏や秋まで伸びていようと、悪い状況は覆りようもない気がした。
「だから、君に打ち明けた時点で、僕はもう諦めていたんだ」
「……」
「せめて最後、幸せに君と過ごせたらいいって」
たびたび、時間はあるとそう言ってきた。
現に一、二ヶ月ほどの時間はあったのだ。
俺はその間、透子がいなくならないように策はないかずっと考えていた。
いや、考えているふりをして、何もなせない自分の無力感に浸り、実際に動いたのは母親と会った程度。
そんなことに残り時間を費やすくらいなら、もっとマシな過ごし方があったはずだ。
彼氏彼女らしいことを、デートでもなんでも、やればよかったのだ。
一生忘れられないような共通の記憶を作ればよかったのだ。
「説得できるつもりで、楽観視して、先延ばしにして……君と恋人になれて浮かれていた」
浮かれていたのは俺も同じだった。
現実が見れていないから、正しい判断をくだせなかった。
「こうなるなら、もっと早くからこうすべきだった。いや、そもそも君と僕は……」
透子がその先を言うことはなかった。
代わりに黒い瞳から雫が溢れ落ちた。
それはあまりに酷な一言だ。
優しさというより、言うのに気が咎めたのだろう。
最初から付き合わなければよかった、なんてことは。
「僕は君を縛り付けるつもりはない」
続きを言わないでくれ、とは言えなかった。
俺はただ呆然と、その言葉を受け入れた。
「別れよう」
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