百四十五話 職員室

「お疲れ様です、柊木先生」


 放課後の職員室。

 給湯室から両手でコーヒーを運んできた雁坂教諭は、柊木の空いた机に一つ置いた。


「ああ、どうも」


 柊木は猫舌なのでさほど嬉しくないと思いつつも、さすがに口には出せないのでありがたくいただく。


 一応、一口だけ飲む格好をして、あと10分は冷まそうと決意した。


「お悩み中ですか。もしかして、城ヶ崎さんのことですか」

「まぁ、そうですね」


 同僚の雁坂は歳が近く、配席も隣のため、隙間時間にやたら話しかけてくる関係だ。

 明智高校で若手の先生と言えば、同僚からも生徒からも、この二人がセットにされることが多い。


 本人としては、さほど若くないつもりなのだが。


「大変ですよね。親の都合で海外だなんて」

「ああ。ただ、保護者の前でそんな言い方はやめてくださいよ」


 どこの家庭も事情があるものだ。

 仕事の都合や教育方針にいちいち首を突っ込むわけにはいかない。


「わたしだってそのくらい弁えてますよ! でも、城ヶ崎さんのメンタルが心配なんです」

「そうですか?」


 むっと言い返してきた雁坂には悪いが、そんなことで悩んでいたのではなかった。

 

 柊木からみて、城ヶ崎透子という生徒は特段心配する必要がなかった。

 以前はよく知らないが、少なくとも高校2年生になり自分が受け持つようになってから、城ヶ崎という女子生徒は何も問題のある生徒ではなかった。


 それは、このイギリスへの転校という事態になっても、変わるものではない。

 心中穏やかとはいかないだろうが、対応するだけのメンタルは持ち合わせているように思える。


 問題は、もう一人の方だ。


「俺としては、あっちの方が気にかかるがね」

「あっちって?」

「あー、まぁ、なんでもないです」


 柊木は明かさなかった。

 下手に騒ぎ立てるつもりはない。

 実際、具体的に何かが起こっているわけではないのだから。


 だがメンタルの話で言えば、一番に心配すべき生徒がいる。


 もう一度、話をするべきかもしれない。

 柊木は苦いコーヒーを啜った。


 ♢

 

 なんとかする。

 そう言ってから、俺にできたことはただの一つもなかった。


「楓。もういいよ」


 透子が俺の肩を撫でる。

 その声音は優しかったが、俺には聞き捨てならなかった。


「どういう意味だよ」

「言っただろう。思い詰めなくていいよ。まだ時間はある……」


 どう考えたって、時間なんてない。

 3月まであと少ししかない。

 母親を説得しようとしたが、何も上手くいかなかった。

 回数を重ねてどうにかなる問題じゃない。


「時間か。せめてもっと早く言ってくれてれば……」


 せめて、もっと時間があればなんとかできたかもしれないのに。


「っ、すまん」


 すぐに、俺は自分の失言を悟った。


 透子を責めたかったわけじゃない。


 俺は透子の顔を見るのも怖くて、目線を上げられなかった。


「まだ時間がないわけじゃない。それまでになんとか」

「そうじゃなくて、僕が言いたいのは……」

「?」


 透子は何事か言いかけて、途中でやめた。

 俺も、追及することができなかった。


「いや……」


 お互い、言葉を濁したままだった。

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