百四十四話 生徒指導2

 二月の初週が終わろうとしていた。


 重く苦しい時間は長く感じられるのに、暦だけは進んでいる。

 

 なんとかする。

 なんとかすると言いながら、俺は何もできない。


 授業も、部活も手に付かない。

 透子といてもずっと気まずい沈黙がのしかかっている。


 そんな中、何の前触れもなく柊木先生に呼び出された。


「久しぶりだろう、ここは」


 いつかも呼び出された生徒指導室。

 段ボールの積まれた狭い部屋。


 ヤニ臭い服を着た柊木先生は、相変わらず気怠そうに顎髭を生やしている。


「特に何かした覚えはないんすけど」


 正直なところ、謎の指導に時間を費やしている暇はない。

 俺はイライラして柊木先生を見返した。


「そうトゲトゲするな。城ヶ崎のことだ」

「!」

「転校の件、当然俺は知ってるからな」


 煙草をくわえたそうに眺め、胸ポケットに仕舞う柊木先生。


「担任としては、成績優秀な生徒を一人失うわけだからもったいない気分だが」

「……そうすか」


 そんなことはどうだっていい。

 何も、そんな話をしに俺を呼び出したわけではないだろう。

 案の定、すぐに話の矛先は俺に向かってきた。


「お前ら、付き合ってるんだよな」

「誰から聞いたんすか」

「見てりゃわかる」


 そう言って、柊木先生の口角がぐっと上がる。


「悲恋だな」

「っ……教師ともあろう人が揶揄うこと自体どうかと思いますけど。せめてタイミングってもんを考えてほしいっすね」


 何が悲恋だ。

 そんなドラマチックな言葉で片付けるな。

 俺は現実的にどうにかしようとしてるんだ。


「どうする気だ? お前もイギリスに行くのか?」

「無理ですよそんなの」

「だろうな。お前はまだ17のガキだ」


 分かりきっていたことを、吐き捨てるように言う柊木先生。

 何を言いたいのかと思えば、本当に揶揄うだけか。悪質な。


「実際どうするつもりなんだ。国をまたいだ遠距離ってのはどう考えてもきついぞ」

「だからどうにかして止めようって悩んでるんだよ」

「……止める?」


 柊木先生の顔つきが変わる。

 癇に障ったような表情。


「それで毎日思い詰めたような顔してんのか。呆れたぞ」

「別にいいだろ。俺の勝手だ」

「あのなぁ」


 柊木先生は少し声を荒げかけたが、眉を顰めて踏みとどまったような間を置いた。


「あのな、それは子どもの我儘っていうんだ」

「……っ」

「高二にもなりゃわかるだろ」


 そんなことは、言われなくてもわかってる。

 その上でどうにかしようって考えてるんだよ。


「……」


 なのに俺は反論一つ言葉にできなかった。


 柊木先生はカラフルなパンフレットを俺に差し出した。


「例えばな、留学っていう手があるだろ」


 それは留学関係の資料だった。


「うちの学校に留学制度なんて上等なもんはないがな。自分で探せばあるんだよ」


 柊木先生は出した資料を引っ込め、パラパラと興味なさそうにめくりながら言う。


「長期留学は大金もかかるから、夏休みだけ行くとかな。それでも割とするが。イギリスなら受け入れ先は豊富なほうだ」


 俺が黙っていると、柊木先生は資料を閉じる。


「お前、そういうこと少しは調べたのか?」

「……」


 ……。

 確かに、具体的に調べたことはない。

 だが、それに何の意味があるというんだ。


 そんな金なんてない。

 留学を使って、一年に一回会う?

 スケールの小さい七夕伝説じゃあるまいし、そんなことをして何の意味があるんだ。


「……言わせてもらいますが、教師がそんな軽率な発言していいんですか。俺の家庭事情とか経済事情を知っての発言ですか?」

「うっ、それを言われるときつい」


 苦し紛れに言い返すと、あっさり折れる。

 くそ、何なんだこの人は。


「だがお前は進学志望だろ。大学生にもなればアルバイトもできる。短期留学の資金くらいどうにかできるはずだ」


 簡単に言ってくれる。

 俺はもはや我慢しきれなくなっていた。


「だから、それがなんだっていうんだよ。近くにいなきゃ意味ないでしょ」


 毎日必死にアルバイトして、年に一度か会えと?


 なんだそれは。

 それでもいいなんて言う奴が、どこにいるんだ。


「おいおい、遠距離恋愛全否定派か?」

「限度があるだろってことですよ。つーか、なんで先生とこんな話しなくちゃいけないんすか」


 遠距離恋愛が良いだの悪いだの、そんなことはどうでもいい。


 俺は透子との関係にしか興味ない。


「……クソ」


 だが、それはつまり。

 距離が離れれば、時間が経てば、続ける自信がないということであり。

 続ける努力もしないまま、駄々を捏ねていたということで。

 

 それを散々、今まで自白していたということになる。


 だがそれはわかっていた。

 わかっていたけど、それでも失いたくないから、こんな思いをしているんじゃないか。


「だからそうトゲトゲすんな。重々しく考えすぎなんだよ、お前は」


 大きくため息をつき、柊木先生は微笑んだ。


「なにも俺は本気で留学を勧めたわけじゃねぇ。お前に冷静に考えて欲しかっただけだ」


 そのときの柊木先生の声は、一段と優しく聞こえて、俺のことを本気で心配しているようだった。


 だが同時に、俺には癪だった。


「お前らの年齢はな、小さなことを大きく捉える。本当は大したことがないことでも、お前らの年齢だと人生の一大事のように感じてしまう。そういう時期なんだ」


 つまり、すべては些細な問題だ。

 日々の悩みごとなど、すべて例外なく。


「人生は続くんだ。終わらせなければな。大人になった時、あんなことで悩んでいたのかと思う時がくる」


 柊木先生の言うことは、確かに間違ってはいない。

 だけど、それでいいのかという気もしてくる。

 

「学校とか、家庭とか、彼女とか、そんなものがすべてだと思うのはよせ。それらは大事かもしれないが、それが全部じゃない。環境は時が経てば変わる。心も少しずつ大人になってくる」


 大人になれば、時が経てば、どうにかなる。

 それは多分、間違ってなくて、大抵のことはそれで解決される。


 いや、本当の意味での解決などされない。

 記憶が風化して、感じ方が変わるだけだ。


 時間が経って、俺の中で感じ方が変わっていたとき、そこにもはや今の俺という存在はいないだろう。


「今は辛いだろうが、耐えろ。それにな、一度終わったと思ったものも、ひょんなことから上手くいったりする。いかないこともあるがな」


 甘く……楽観的な言葉だ。

 

 だが、俺はそれを否定できないまま、生徒指導室を後にした。

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