五話 別れ

 夜明け前が一番暗い。


 暗闇は人間の本能的な恐怖の対象だ。人は暗闇を怖れたから火を起こし、電気を操り、不夜の城を築いたのだ。

 なにかの本で偉い人が言っていた。根拠は知らん。夜明け前が一番暗いかどうかもよく知らない。


 その暗闇の中、指示された道順を俺は困惑しながら走行していた。

 通い慣れた地元だというのに、よくわからなくなっていた。


「なあ、迂回しすぎてないか?」


 たしか、ここはさっき通った気がする。

 あの電信柱、郵便ポスト、たしかに見覚えがある。


 そういうホラーがけっこうあるのを思い出した。

 タクシーに乗せた客が幽霊で、時空が歪んで最終的にあの世に連れて行かれそうになるやつ。

 最後はなぜか助かる。助からないと怪談にならないから。


 今もまさにそういった状況に近い。

 まさか……


「気付いたか! ガソリンの無駄遣いだね!」


 後部座席でシロサキが楽しそうに叫ぶ。

 ただの馬鹿だったので幽霊ではなさそうだ。地味な悪質さは幽霊よりひどいが。最後の最後に嫌がらせ行為か。


「ふざけんな」


 ガソリンだって安くはない。

 一時停止の標識で停止すると、シロサキはくつくつと笑って呟いた。


「もっと君は悪い奴だと思ってたよ」

「なに、急に」


 実はもっとスリルを味わいたかったんだろうか。煙草ではご不満か。

 崖でチキンレースとかのほうがよかったかな。そのあとヤーさんと賭け麻雀をして伝説になる。そんなわけはない。


「人気のないところに連れて行かれて、ひどい目に遭うと思ってた」

「はあ?」


 久しぶりに腹の底から声が出た。

 それをわかっていて従順についてきたのか、この子は。

 客観的に見ると確かに危ないシチュエーションである。ただ、俺の視点に限っていえばそんなことは起こりようがない。それは俺だけが知っていれば済むことだ。


 けれどそれは彼女の危機管理能力とは別の話だ。

 シロサキは笑いながら指折り数えていった。


「大きいし、顔怖いし、将来ヤクザになりそうだし」

「ひでえ言われようすぎて逆に笑っちまうよ」


 俺の好感度を下げてなにか楽しいのだろうか、この子は。

 これまで偏見で適当に接してきたが、俺にもだんだん、シロサキがどういう子が分かってきた気がする。それも勝手な思い込みだろうけど。


「こんなに笑ったのは久しぶりだよ」

「いやそういうのいいから、早く家までのルートちゃんと言え」

「ここでいいよ」


 原付バイクにかかる重みがわずかに減った。振り向くとシロサキがヘルメットと上着を脱ぐところだった。


「僕の家はこの近くだからね。スリッパでも歩いていける」


 靴下とスリッパだけの寒々しい足を、テーマパークの着ぐるみマスコットのように上げてみせるシロサキ。眩しい朝日がはじめて彼女の全身に降り注いだ。


「そうか。転ばないように帰れよ」

「うん」


 素直に頷く声が妙に耳に残った。


「歯磨いて風呂入って寝ろよ。たぶん今お前臭いぞ」

「うるさいよ。ばか」


 最後に怒らせたらどうなるかと思ったけど、笑顔で罵倒された。あまり感情が表情にそのまま表れない質らしい。それとも本気で怒ってないか。


 いつか本気で怒るシロサキを見てみたい気もする。そもそも、「いつか」が来る可能性もほとんどないだろうけど。


 だいぶ前から遠くで聴こえていた自動車の音が、ようやく横を通り過ぎた。そろそろ潮時だ。


 別れの挨拶を切り出したのは俺からだった。


「じゃあな」

「ばいばい」


 お互いに「また」とか再会を期待するような言葉は多分避けていた。あっても気まずいだけだし、そんな偶然は怖くなるから嫌だ。


「……」

「……」


 沈黙を押して俺はヘルメットを被った。


 ジャケットは今日はもう要らない。寒さにも随分慣れたし、あとは親父のいる家に帰るだけだ。風邪を引いたって構いやしない。


 原付が朝日の方へ走り出すと、いともあっけなく、その時間は幕を下ろした。

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