その先にあるもの、北氷壁

 それはまるで、落ちてきた太陽。

 真昼の明るさを暴力的に塗り潰す、紅蓮ぐれんの炎がリュカの手にあった。燃え盛る火球は、徐々に膨らみ勢いを増してゆく。

 リュカたち魔族にとって、禁忌きんき象精アーズ

 祭事にしか使ってはならない炎の力が発現していた。

 それを高々とかざして、リュカは敵を睨む。

 人間たちは明らかに動揺し、それをアシュラムの激した声が上書きしてゆく。


「恐れるな! 神と教会の加護は我らにあり! 白邪はくじゃのまやかし、なにするものぞ!」


 炎、それは唯一にして絶対の力。

 四つの根源、その一つでありながら……自然界では人間と魔族のみが扱う、それが炎だ。対となる象精もなく、ただただ熱と破壊の力しかもたらさない。

 ゆえに、魔族はこれを強くいましめた。

 逆に人間は、火の力を文明に変えて急発展したのである。

 リュカとて後ろめたさを感じてはいたが、もう手段を選んでいられなかった。


聖導騎士せいどうきしアシュラム、兵を引けっ! 御子みこは、マヨルは僕たちが北へと帰す」

「古き伝承にある、北のゲートか! だが、北氷壁ほっぴょうへきは教会が定めた禁地!」

「北氷壁? それは」

「そんなことも知らずに、御子が導けるものかよ! ……ふむ、これではちと話が違うか!」


 アシュラムは馬首をひるがえし、怯むことなく向かってきた。

 だが、リュカだってあとには退けない。

 ちらりと視線を走らせれば、ヤリクがミサネをフォローしつつ目配せしてくれていた。阿吽あうんの呼吸で視線を交わせば、いよいよ戦うしかないと悟る。

 正直、人に向けて象術しょうじゅつを使うのは初めてだ。

 祝祭や葬儀の時も、まだまだ子供のリュカに出番はないからだ。

 それでも、やらなければいけないと思ったその時、


「リュカ君っ、駄目! ミサネちゃんだって、手加減してくれたんだよっ!」


 一瞬で、リュカの理性が静かに澄み渡った。

 苛烈に燃える手の中の炎が、僅かに勢いをひそめる。

 その声の主は、マヨルだった。

 荷物を皆と分かち合う彼女は、包囲されつつある中でも瞳を輝かせている。光の御子などと言われていた頃よりも、その光には強い意思が感じられた。

 すかさずリュカは、真っ赤に燃える手を振り下ろす。

 瞬間、周囲は白い闇に覆われ悲鳴が連鎖した。


「なっ、なにも見えん! 霧が!」

「アシュラム様、お下がりを!」


 リュカは炎を放った。

 すぐ横を流れる川へと向かって。

 瞬時に沸騰した清水が、周囲を水蒸気のヴェールで覆い尽くす。

 その時にはもう、リュカは踵を返して走り出していた。


「みんなっ、北へ! 森へ逃げ込めば、人間たちの馬は使えない!」


 膨大な熱量が、周囲の空気を焦がしてゆく。

 自らが生み出した力に、リュカは内心で舌を巻いていた。これを自分は、敵とはいえ人間に向けようとしていたのである。

 以前から人目のない場所では、火の象精を出してみたりはしていた。

 今ならわかる。

 息せき切って走る中、肺腑はいふに出入りする空気が教えてくれる。

 炎は、ただそれだけでは戦いすら破壊してしまう。

 マヨルの声がなければ、生きたまま焼かれる人の臭いが満ちていただろう。


「くっ、リュカ君! 卑怯な……私に勝てないと知って、逃げる気か!」

「ああ、そうだよ!」


 濃密な空気の渦が、白く濁って全てを隠してゆく。

 その中でも、リュカは魔族としての眼力で仲間たちの影を追った。マヨルには仲間たちがついてくれてるし、ミサネも肩を撃ち抜かれたくらいではへこたれたりしない。

 局所的な濃霧の中、必死で皆で駆け抜けた。

 手近な森に逃げ込めば、まずはよし……しかし、その先はさながら樹海だ。そして、その先に進んで戻ってきた者はいない。

 人間の世界でも、北の大地はどうやら立ち入ってはならぬ土地らしい。


「ヤリク!」

「あいよ、すぐ横にいるぜ」

「君の象術で稲妻いなづまを」

「お、ひっでえこと考えるなあ、角ナシは。いいぜ!」


 ゆらめく影が振り向いた。

 その手に構えた弓が引き絞られる。

 石を削って研いだやじりに、青白い閃きが弾けた。

 ヤリクの象精は風、その対となる力はいかずちである。そして、リュカは知っていた……稲妻の力は水を通して、あっという間に周囲に広がるのだ。

 ヤリクは何も見えない中で、天高く矢を放る。

 放物線を描いて消えた矢の向こう側で、再び人間たちの悲鳴が響き渡る。


「ま、こんなもんだろ。少し痺れる程度だ」

「助かるよ、ヤリク。これで追手は二の足を踏む」

「だといいがな」

「僕が指揮をとってれば、慎重にならざるを得ないさ。白邪の恐るべき妖術にね」


 徐々に視界が開けてゆく。

 真っ先に機敏な動きを見せているのは、ミサネだ。

 ヨギとナーダが、マヨルを乗せた鳥走竜ケッツァ手綱たづなを引いている。

 荷物もちゃんと持ち出せたようで、すぐ目の前には木々が乱立する森が広がっていた。

 迷わず飛び込めば、草花に足が取られて、枝葉がむちのように肌を叩く。

 すぐ側の木に、人間たちが使う弩の矢が突き立った。

 それでも、全く速度を緩めずリュカたちは進む。

 薄暗い中では、木漏れ日ですら不安をあおる頼りなさだった。

 やがて、最初に音を上げたのはヨギだった。


「はぁ、はぁ……もう、走れま、せん……」


 ヨギが倒れ込んで初めて、一同は止まった。

 走鳥竜に荷物みたいに積まれていたマヨルが、真っ先に飛び降り駆け寄る。彼女の無事を確認して、リュカも額の汗を拭った。

 流石さすがにヤリクやミサネは息があがっていないが、他の面々は疲労困憊だ。

 リュカも、両手を置いた膝が震えている。

 背後に追ってくる気配はなかったが、これでいよいよ引き返せなくなった。

 そして、珍しく鋭い口調がリュカを突き刺す。


「ちょっと、リュカ! さっきのはなんですか! いけません、いけませんったらないわ!」


 ナーダだ。

 彼女は珍しく怒気を荒らげている。腰に手を当て、プンプンと鼻を膨らませていた。

 当然だ……リュカは魔族の禁忌を犯したのだ。

 使使

 直接的な攻撃ではなかったが、それも言い訳に過ぎない。


「とりあえず、ナーダ……ごめん。それと」

「それとも、これとも、あるものですか!」

「……僕はこっちだよ」

「あ、あら?」


 大きな切り株に向かって詰め寄っていたナーダが、振り返る。彼女はバツが悪そうに俯いたが、すぐにこっちを睨んできた。そのまぶたが開かれることがなくても、鋭い視線に八つ裂きにされてる気分だった。


咄嗟とっさに川に投げ込んだけど、よかっただろ? ただ、もうやらない。と、思う」

「まったく! ねえ、リュカ……火の象精を持つものは十二氏族じゅうにしぞくの中でも少ないし、皆が自制心を強く持って暮らしてるんです。わかりますか?」

「ああ、君の言う通りだ。みんなも、ごめん」

「まあ、助かるには助かったのだけど。それと、ちょっといいでしょうか」


 ナーダが歩み寄ってくる。

 彼女が張り出した木の根に突っかかりそうになって、慌てて踏み出しリュカが支えた。普段の生活を平然とこなしていても、この森では視力のないナーダが一番大変そうである。

 ナーダはよろけつつも、遠慮なくリュカの腕に体重を預けてくれる。


「水に火を入れるとああなるのね。よくみんなで使う温源おんげんみたいなものかしら」

「ああ、間違っていない」

「なら、私の象精である水の力で、同じことができるわね? 二人でやれば、私だけで出す霧よりさっきみたいに強く濃いものを広げることができそうです」

「二人でかい?」

「私だけじゃ、あんなに大量の水を呼び出すことはできないけど……水辺とかなら」


 ナーダはそう言って、ほっそりとした手を伸べる。

 彼女が持つ象精は、水だ。

 静かに水の玉が浮かぶが、先程のリュカの火球とは違って小さなものだ。この量の水分では、大規模な水蒸気爆発は起こせない。

 けど、地形によってはナーダの操る水は激流となる。


「なるほど、二つ以上の異なる象精を……組み合わせる」

「まあでも、火は使わないにこしたことはないと思います」

「うん。でも、いざとなったら?」

「その時は……目をつぶるのだわ」


 いつもつぶってるけど、とナーダが小さく舌を出す。

 リュカはリュカで、象術の意外な可能性に驚いていた。

 勿論もちろん、ヨギの持つ土や、ヤリクの風とも新たな親和性が見い出せるかもしれない。これからの厳しい旅にとって、それはとても大きな戦力になるかもしれなかった。

 ただ、やはりナーダの言うように火の力には慎重になる必要があった。


「火遊びは程々に、ってことか。さて、みんな! もう少し奥に進もう。この辺はまだ、人間も魔族も出入りできる地域だ」


 そう、本当の森はもっと奥だ。

 光の御子が帰る場所、教会の人間たちが北氷壁と呼ぶ秘境……そこになにが待つのか、今のリュカにはわからない。

 ただ、そこでマヨルとお別れだということは理解できていた。

 皆の先頭に立った笑顔のマヨルが、今はただただ眩しかった。

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