11

「私と、ここを出る?」

 「え?」

 「ここを出て、当たり前の人間みたいな顔して暮らしてみる?」

 深い水の中みたいに静かで冷たい胸の中で、直巳はその暮らしを想像してみる。

 生計は、どうにか立とう。直巳は健康な体を持った働き盛りの男であるし、野分は手習いでも花道でも茶道でも人に教えられる。

 毎日二人して稼いで、小さなアパートでも借りて、時代錯誤の衣装は捨てて、当たり前の洋装をして、暮らす。

 できそうだった。それは幸せに近い暮らしのような気もした、けれどそこには、やはりどうしても逃れられず縛られた心の直巳と野分がいた。

 野分花魁は、かつて直巳の師の女だった。

 師は晴海楼で過労で倒れてそのまま死んだ。野分が年季が明けてもこの廓を離れない理由は、まず間違いなくそれだろうと直巳は思っていた。この人も自分と同じように過去に縛られているし、だからこそ焦れたように直巳をここから逃がそうとしてくれるのだと。

 「……できない。」

 直巳が泣くように言うと、野分は直巳の頭を抱きしめたまま、なぜ、と問う。その問いかけは、あまりにも真剣なトーンでなされた。このうつくしい人は、本気で直巳を連れて行こうとしている、

 この誰よりもうつくしい人に、自分はどれだけの情をかけてもらったのだろうか。

 けれど、それでも。

 「さみしいですよ。それは、やっぱり。」

 縛られたままの心で、幸せごっこなんてしてみても、きっと寂しい。耐えられないくらい、骨に色が染みるくらい、寂しい。

 「あんたがもっと馬鹿だったらよかったのに。」

 喉の奥が少し詰まったような声でそう囁いた野分花魁は、ぎゅっと最後に一度直巳をきつく抱き寄せた後、するりと着物の裾をさばいて立ち上がった。

 「じゃあ、一人で行くのね?」

 なぜ知っている、などと問えなかった。直巳の頭の中はいつだって野分に筒抜けだ。

 「はい。」

 畳に両手をついて突っ伏したまま、直巳は深く頷いた。

 一人で行く。もう、縛られた心のまま、柳沢の訪れを恐れながらも期待するような、惨めな心持ではいたくないから。

 だから、一人でどこまでも流れる。いつか、縛られた心が解放されて、柳沢のことなどすっかり忘れ去るまで。

 別れの言葉一つ直巳に掛けず、花魁は舞うような足さばきで身を翻し、一番の座敷を出て行った。

 一人残された直巳は、女郎たちがいつもするように、汚れ物を片付け、布団を畳み、部屋を掃き清めた。そして、勝手口から常のように晴海楼を出ると、その足でそのまま桜橋を渡った。

 それで、直己と桜町の話は全部だ

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女衒直己と三人の女郎 美里 @minori070830

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