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「空蝉がなにか、粗相でも。」
直巳の台詞は明らかに保身だった。自分でもそれは承知していた。一度情を通じた男として柳沢の前に立つよりも、女衒としての方がずっと気が楽だった。
「いいや。」
柳沢は直巳の心境になどまるで頓着した様子もなく、赤い柄のキセルで煙草を吸いながら、明らかに一度抱いた女郎として彼を見ていた。
柳沢の容姿を明るいところできちんと見るのははじめてだったが、やはり癖のある金に近い髪をした、宗教画の天使みたいな男だった。
「家内はよくやっているよ。ただ、女にも飽きたからさ。」
脇息にゆったりともたれ、だらりと襟を広く開けて着物を纏う姿は、四年近く前の彼の姿とまるっきり重なった。だから直巳の胸は、ずんと重苦しくなる。
「俺は、この廓に属しているわけではありませんから。」
直巳はそうやって目の前の男を拒もうとした。
一度めは、水揚げ代などと謳った大金と引き換えに、太客の息子の言いなりになった。まあ、悪くはない話だったと思う。客観的に考えても。
でも、二度目はそうではない。自分が手掛けた花魁が嫁いで行った相手に、一女郎の玉代で抱かれる。それはもう、客観的に考えれば考えるほど馬鹿げた話だ。女衒の仕事内容とはかけ離れすぎている。
それでも柳沢は、女のように白く滑らかな手で、立ち尽くす直巳の袖を引いた。
それだけの仕草なのに、直巳は腰が抜けたように柳沢の前に座り込んでしまう。
情けなかった。情けないが、認めないわけにもいかなかった。まだ直巳は、この男に縛られている。
「俺は、女郎じゃないから……、」
今度こそ、あなたに抱かれるわけにはいかない。これ以上、あなたに縛られるわけにはいかない。
どちらも言葉にならなかった。直巳の両腕は勝手に柳沢の首に縋っていた。
「女郎じゃないから?」
面白がるように、柳沢の左手が直巳の背を撫でる。もう片方の手は畳の上に垂らされて、キセルを握ったままだ。
「ないから……。」
言葉が意味をなくしていた。これはもうただの音の羅列に過ぎなかった。意味を読みとろうとする人間のいない空間で、言葉は浮かんで消えるだけ。
もう柳沢はなにも言わなかったし、直巳もなにも言えなかった。ただ、夜が明けるまで、女郎と客の真似事をした。
明けの烏が啼く声で、柳沢は直巳の肌を手離した。
「帰らないとな。」
一晩肌をいじくりまわされていた直巳は、褥に突っ伏したまま掠れた声で男に乞うた。
「もう来ないで下さい。」
男はきれいに整った顔で、いっそ妖艶な笑みを浮かべた。
「女に飽きたら来るよ。」
それは直巳には、死刑宣告のようにすら聞こえた。
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