柳沢雪保が直巳を買いに来たのは、それから一週間が経った、薄ぼんやりと暑い夜だった。

 直巳は自分の部屋の窓枠に上半身を乗っけて煙草を吸いながら、そろそろ風呂屋へでも行こうかな、それともいっぱいどこかで酒を引っかけてからにしようかな、などとぐずぐずしていた。

 生ぬるい気温は体温とちょうど重なって、なんとなく身も心も怠くなる。

 だらだら煙草を消費していると、とんとんとん、とせわしなく戸が叩かれる。

 気怠い身体を引きずって、のろのろと引き戸を開けると、以前は空蝉の禿だったこはるが、晴海楼の提灯を持って立っていた。

 「どうしたこはる。」

 薄紅色の振り袖姿の彼女は、ふっくらとした頬を幾分緊張させながら、直巳の袖を引いた。

 「直巳さんにお客さまです。」

 「客?」

 「柳沢さまです。空蝉花魁の旦那さま。」

 そのとき直巳は咄嗟に、柳沢雪保が空蝉を売り戻しに来たのではないかと勘繰った。そういう話は、ときどきある。

 しかし、こはるは直巳の袖をぐっと引いて彼をかがませると、女将さんからの伝言です、と声を潜めた。

 声を潜めて伝えるように、女将に言われてきたのだろう、白い頬には秘めごとをひそひそ話す女の子らしい、楽しげな色が灯っていた。

 「その気があるなら、まともな着物を着ていらっしゃいって。」

 そこでようやく直巳は、柳沢雪保がまた自分を買いに来たのだと理解した。

 いや、もう買われる気はない。最初で最後のあれは、気の迷いだった。

 思わず、弾かれるようにそう言いかえしかけたが、ぐっと口をつぐむ。

 馴染みの廓からの呼び出しをなかったことにはできない。直巳は普段着の紺の一重のままこはるに先を歩かせ、晴海楼へ向かった。

 こはるは柳沢雪保身投げの一件から直巳に随分懐いているので、急ぎの道行とはいえなんだか嬉しそうに直巳を振り向いて笑った。  御年10歳。女将からの伝言の意味は、まだ理解できていないらしい。

 直巳はそのことになんとなく安堵し、今度お使いの褒美にあんみつでも食わしてやる約束をした。

 「一番のお座敷です。」

 晴海楼の勝手口で提灯の火を吹き消したこはるが、ちょっと大人ぶった口調で奥の座敷を指し示す。

 ありがとう、と直巳は少女の島田に結った髪をそうっと撫でた。

 そして一つ息をついて自分を奮い立たせ、一番の座敷の前に座す。

 「直巳です。失礼いたします。」

 「おう。入れ。」

 声などとうに忘れていると思っていたが、一言訊けば生々しく記憶が甦った。声も、体温も、体重も、体臭も。

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