8
柳沢雪保が直巳を買いに来たのは、それから一週間が経った、薄ぼんやりと暑い夜だった。
直巳は自分の部屋の窓枠に上半身を乗っけて煙草を吸いながら、そろそろ風呂屋へでも行こうかな、それともいっぱいどこかで酒を引っかけてからにしようかな、などとぐずぐずしていた。
生ぬるい気温は体温とちょうど重なって、なんとなく身も心も怠くなる。
だらだら煙草を消費していると、とんとんとん、とせわしなく戸が叩かれる。
気怠い身体を引きずって、のろのろと引き戸を開けると、以前は空蝉の禿だったこはるが、晴海楼の提灯を持って立っていた。
「どうしたこはる。」
薄紅色の振り袖姿の彼女は、ふっくらとした頬を幾分緊張させながら、直巳の袖を引いた。
「直巳さんにお客さまです。」
「客?」
「柳沢さまです。空蝉花魁の旦那さま。」
そのとき直巳は咄嗟に、柳沢雪保が空蝉を売り戻しに来たのではないかと勘繰った。そういう話は、ときどきある。
しかし、こはるは直巳の袖をぐっと引いて彼をかがませると、女将さんからの伝言です、と声を潜めた。
声を潜めて伝えるように、女将に言われてきたのだろう、白い頬には秘めごとをひそひそ話す女の子らしい、楽しげな色が灯っていた。
「その気があるなら、まともな着物を着ていらっしゃいって。」
そこでようやく直巳は、柳沢雪保がまた自分を買いに来たのだと理解した。
いや、もう買われる気はない。最初で最後のあれは、気の迷いだった。
思わず、弾かれるようにそう言いかえしかけたが、ぐっと口をつぐむ。
馴染みの廓からの呼び出しをなかったことにはできない。直巳は普段着の紺の一重のままこはるに先を歩かせ、晴海楼へ向かった。
こはるは柳沢雪保身投げの一件から直巳に随分懐いているので、急ぎの道行とはいえなんだか嬉しそうに直巳を振り向いて笑った。 御年10歳。女将からの伝言の意味は、まだ理解できていないらしい。
直巳はそのことになんとなく安堵し、今度お使いの褒美にあんみつでも食わしてやる約束をした。
「一番のお座敷です。」
晴海楼の勝手口で提灯の火を吹き消したこはるが、ちょっと大人ぶった口調で奥の座敷を指し示す。
ありがとう、と直巳は少女の島田に結った髪をそうっと撫でた。
そして一つ息をついて自分を奮い立たせ、一番の座敷の前に座す。
「直巳です。失礼いたします。」
「おう。入れ。」
声などとうに忘れていると思っていたが、一言訊けば生々しく記憶が甦った。声も、体温も、体重も、体臭も。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます