「怖いんです。」

 触れればそのまま脆く砕けそうなまっ白な頬に新しい涙の雫を伝わせながら、すすり泣きまじりにこすずは囁いた。その声も、風に散らされる花のように儚げだった。

 「なにが。」

 線の細い娘も気の弱い娘も相手したことはあるが、彼女のそれはちょっとこれまでにないほどだった。

 この娘は女郎としてやっていけるのだろうか、と、直巳はいささか不安に思う。この儚さが受けて売れに売れるか、そうなる前に気を病んで死ぬか。そのどちらかで中間はないような気がした。

 「水揚げ。」

 ぽつりと、薄桃色の唇から洩らされた単語は、女郎として生きるには避けることのできないそれだった。

 「……怖くても、女郎はみんな通る道だ。過ぎちまえば大したことはないよ。」

 知ったような口を利く、と以前の直巳なら内心自嘲する台詞だったが、今は違う。直巳も一度は金を媒介に男と体を重ねた身だ。過ぎてしまえば、大したことはない。

 確かにそうだろう、と、頭の中だけで己に問いかける。頭の中の自分は、頑なに口をつぐんで返事をしない。

 「……死んでしまうかもしれない。」

 こすずの玩具みたいに小作りの指が、直巳の着物の袖を掴んだ。哀れになるほど、か細い力で。

 「そんなに怖がるもんじゃない。大丈夫だ。ちゃんとなにもかも承知している客をこっちだって選ぶんだから。」

 「でも、私は、」

 「うん?」

 「直巳さんがいい。」

 一瞬言葉に詰まったが、それでもはじめての告白ではなかった。

 はじめては直巳がいいと、袖に縋った女は過去に何人もいた。この廓に売られてきて、頼れる相手は直巳しかいないと思い込む娘は少なくないのだ。

 「俺は女衒だ。客にはならないよ。」

 「……それでも。」

 「死ぬほど嫌なのか、知らない男と寝るのは。」

 「いや。いやです。……ここまで来ても、私は親不孝ね。」

 親不孝。親に売られて女郎屋にいる禿の身の上には、ひどく不釣り合いな言葉だった。

 直巳を水揚げした男を思い出した。お互い親不孝だなどと言って、直巳を幾年も縛り続ける男。

 思い出すと、駄目だった。きっちり鎧っていたはずの職業倫理が、たかが感傷に簡単に負ける。鋼のはずだった底辺の倫理がばらばらになって、なんの意味も見いだせなくなる。

 「最後までは、やらねえよ。」

 辛うじてそこだけ一線を引き、直巳はこすずの小さな身体を抱えて縁側から庭へ出た。

 紫陽花の垣根を越えたところに、病気の女郎を隔離するための小さな小屋がある。今はそこには、誰も閉じ込められてはいない。この小屋が使われていたのは、もうずっと昔の話だ。

 直巳はその真っ黒い小屋に、こすずを抱いたまま足を踏み入れた。晴海楼に10年近く出入りしている直巳でも、この小屋に入るのははじめてだった。

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