初音花魁

「年季が明けたら、お嫁にもらってください。」

 細い銀糸のような雨が降る夕方だった。直巳と初音花魁は、初音の居室の縁側に座って、中庭に咲いた紫陽花を眺めていた。

 この手の告白には、直巳も慣れている。

 男に抱かれるのが仕事の女郎だからこそ、ふと心は寂しくなるのだろう。情を通じた男に抱かれたくもなるのだろう。そんなとき、一番手近にいる男が直巳なのだ。

 それだけの話なのだから、なに言ってんだか、と軽く流せばいい。花魁にまで上り詰めたような女なら、それだけで十分直巳の拒絶の意を感じ取ってくれる。

 誰であっても、自分が手掛けた女とどうこうなる気はなかった。それは、彼なりの職業倫理として。

 それでもそのとき直巳が返事をしそこねたのは、相手が初音だったからだ。彼女とはすでに一度、ともに職業倫理を踏みつけにしたことがある。

 沈黙が長すぎたからだろう、隣に座る男を初音は不安げに見上げた。

 黒目がちの大きな目には、女郎とは思えないほど繊細で夢見がちな光が灯っている。

 「直さん?」

 名をよぶ声にも、まだ少女の色が抜けきらない愛らしさがある。飴細工みたいな子、と彼女を呼んだのは、確か野分花魁だ。

 「……自分が売り買いした女とは、どうこうならねえって決めてるんだ。」

 余計な台詞だった。これまでその自分なりの職業倫理を、真澄にさえ言ったことはなかった。それでも、彼女の少女めいた容姿や声に触れていると、勝手に言葉が口から出てきた。

 曖昧な物言いで少しでも傷付けたら壊れてしまいそうな、彼女の危うさがそうさせるのかもしれない。

 「……私が、そんなのはちっとも関係がないと思っていてもですか?」

 初音の痩せた白い指が、朝顔柄の浴衣の袖をぎゅっと握りしめる。直巳はそこから視線を逃がし、青と紫の見事な紫陽花に目も気持ちも向けようとする。

 「俺が、あると思ってるからな。」

 「でも、一度……。」

 「気まぐれだよ。悪いことしたと思ってる。忘れてくれよ。」

 それだけ言って、直巳は縁側から立ち上がり、花魁の部屋を足早に後にした。

 一度、直巳は初音を抱いている。水揚げ前どころか、禿だった彼女を。今から三年前の話だ。初音がまだ15歳だった、あの初夏の晩。

 今思えば、気の迷いもいいところだ。まだ幼い彼女の儚さは今よりもっと明らかで、手持ちの女郎の中でも一番手を出してはいけない相手に違いなかった。

 男に抱かれた直後だった。二度目の男色。しかし相手は柳沢雪保ではなかった。よりにもよって、真澄だった。

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