10
明石の情夫は、本当にその日を境に姿を消した。
なんとなく直巳は、彼は故郷には帰っていないのではないかと思った。桜町のどこかに身を潜めて、姉の年季明けを待っているような気がしたのだ。
「迷惑かけてごめんなさいね。」
赤い毛氈の敷かれた縁台に腰掛け、白玉ぜんざいを食べながら、明石は直巳にけろりと詫びた。
「……解決したならそれでいいさ。」
直巳はそう言うしかなく、なんとなくもやもやした気持ちを茶と一緒に飲み下す。
明石花魁は、直巳の微妙な態度に気が付いていないわけでもなかろうに、吹っ切れたように声をたてて笑った。
「弟も妹も、私を恨んでいたの。狭い村でしょ。私が売春してるのなんて、すぐにばれちゃう。」
「やっぱり、してたのか。」
「それも、ごめんなさい。処女なんて嘘ついて。」
「いや、それはいいよ。分ってた。」
「やっぱり。」
よく晴れた空を見上げて、明石は可笑しくてたまらないと言いたげに笑った。直巳はどうしても笑えず、地面に濃く貼り付けられた二人分の影法師をじっと見下ろしていた。
「でも、売春以外で食えるわけない。ほんと、腹が立ったよ。なにが姉ちゃんのせいで俺達まで汚いものを見る目で見られるだっつーの。」
「だから、ここに?」
明石は平然と頷き、空と同じコバルト色の声で直巳の問いに応じた。
「そう。前借金で終わり。後はどうにかあんたたちだけで生きていきなって言ってある。多分、上の妹が売春してるんじゃない。」
残酷な台詞だった。それでも、直巳にはそれが祈りの言葉に聞こえた。そんな感傷的な感想を持ったことが面映ゆく、ジョークみたいな言葉を口にする。
「買いに行こうかな。お前に似てる?」
明石は長く美しい黒髪を揺らして首を振った。彼女の髪はシャンプーのCMみたいに美しいので、客前に出るために結い上げてしまうのがもったいないくらいだった。
「似てないよ。わざわざあんな山の中まで買に行くほどの器量じゃない。」
「そっか。残念だな。」
なぜだか、柳沢雪保のことを明石に話したい気がした。大して話す内容もないくせに。どうせ、話せはしないくせに。
ぽん、と弾みをつけて明石花魁が立ち上がる。
「直巳さん、ごちそうさま。今日からまた稼ぐよ。」
「おう。期待してる。」
辛うじて言えたのは、それだけ。直巳と明石は空になった器を縁台に残し、並んで晴海楼への道を辿りだす。
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