俺はもう寝るんだから出ってください、としきりに繰り返す真澄と、どうしても今は一人になりたくない直巳は、折衷案として真澄の部屋で酒を飲むことにした。

 飲むことにしたといっても、直巳が勝手に真澄の狭い長屋の一部屋に上がり込み、埃の積もったお勝手の床に無造作に置いてあった酒瓶を握り、蓑虫みたいに布団にくるまる真澄の枕元に座り込んだ、というだけの話だ。真澄はなにも承知していないし、はっきりと迷惑そうな顔をしていたし、直巳の話を聞く気もないとその変わらぬうつ伏せの姿勢からも読み取れた。

 「なあお前、明石を買いに行ったときのこと、覚えてるか?」

 真澄のかたくなな態度にもめげず、直巳はぐいとマグカップに注いだ酒を一口で飲み干した。

 「……忘れました。」

 それは明らかに本当に忘れている場合の態度ではなかった。単に、話の腰を折って直巳を部屋から追い出そうとする態度だった。だから直巳は構わず言を接いだ。

 「妹だの弟だのがたくさんいただろう。顔、思いだせるか?」

 長い沈黙があった。

 直巳が真澄は寝てしまったのだと思い、その肩を揺さぶって起こしてやろうと中腰になったタイミングで、多分、とだけぶすっとした声で真澄が答えた。

 「弟の顔は覚えているか。明石のすぐ下の弟だ。」

 今度はそう長い沈黙ではなかった。また真澄は、多分、と答えた。

 「髪結いは知っているか。蛍花魁や六条花魁の所にも出入りしている、若い髪結いだ。」

 もう今すぐ直巳を追いだすのは諦めたのだろう。姿勢は断固として蓑虫のままだったが、沈黙はさらに短くなった。

 「知ってますよ。まだ中学生くらいの。」

 「腕はいいのか。」

 「遊んでるだけですよ、情夫みたいなもん。若くて器量がいいでしょう。閨の腕はいいんだろうけど、まともに髪結いしてるわけじゃない。蛍花魁のとこにも六条花魁のとこにも、井伏さんがまだ出入りしてますよ。」

 井伏というのは、ベテランの女髪結いの名だ。

 なににも興味がなさそうな顔をして、案外目ざとい男だな、と、直巳は素直に関心をした。

 なあ、じゃあその髪結いと明石の弟とは同一人物だと思うか、と訊こうとして、訊けなかった。そうなんじゃないっすか、と、けろりと言われたら理不尽にぶん殴ってしまいそうだった。

 明石に情夫がいるのに気が付いているか、その情夫は明石の弟だと思うか、とも訊けなかった。全く同じ理由で。

 直巳は蓑虫の真澄の枕元にしっかりと胡坐をかき、酒瓶が空になるまでぐいぐい酒を飲んだ。女郎の生い立ちなどろくなものでないのがもう当たり前みたいなものだが、明石のそれはとりわけ悲惨だと、直巳は彼女を買ったときから知っていた。

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