直己は首をひねり、明石に訊いてみます、とだけ返した。気は乗らなくても、確かにそれは女衒の仕事だ。

 そうしてよ、と、野分は直巳の肩をからかうように一つたたいて、自分の部屋へ下がって行った。ただふらりと歩いているだけなのに、その後ろ姿さえ一幅の掛け軸にでもできそうな絶妙な風情を漂わせている。

 野分はこの妓楼の女郎とはいっても、前借金で縛られている身の上ではない。すでに年季は明け、借金も返し終えていて、その上で自分の意志で妓楼に留まり続けているのだ。

 16で客を取り始め、25で年季明け。それからもう四年になる。

 前借金がないから気楽な身の上だと本人は言うが、そう簡単な話でもない。

 禿や本人の衣装代、飯代、部屋代、他にもこまごまとした雑費が一々妓楼に持って行かれるのだし、一日でも仕事を休めばその分出て行く金だけかさんでいく。当然病気になる可能性だってある。

 だから晴海楼で年季明け以降も女郎をしているのは、今のところ野分花魁だけだ。その他の女たちは、特に廓を出た後の当てがあるわけでなくとも、一応は店を出て行く。行き場がなく、出戻ってくる女も少なくはないが。

 店や女郎の采配もできるベテランの彼女に残ってもらえれば助かると、晴海楼の女将はたびたび言っていたが、本当に彼女が年季明け以降も残るとは思っていなかったはずだ。

 しっかり者で抜け目のないの野分のこと、年季が明けたら一緒になる堅気の職人か役人でもとっくに見つけてあるのだろうと、皆頭から思い込んでいた。それは直巳も同じだ。

 なぜ妓楼に残るのか、その理由を女将も直巳も訪ねなかったのは、やはり出て行くと彼女の気が変わるのが怖かったかもしれない。彼女は当たり前のように妓楼に残り、心の内を誰かに語ることはなかった。

 そんなふうに、他の女郎とはちょっとばかり違う身の上だからこそ、野分花魁は明石花魁の異常にも情夫にもすぐに気が付いて、その上でいつ直巳が気が付き、どのような手腕で処理するのか、お手並み拝見と決め込むつもりだったのだろう。

 それが思っていた以上に直巳は間抜けでいつまでたっても手持ちの女郎の異常に気が付きさえしない。だから今日、こうやって声をかけてくれたに違いない。

 これはいつまでたっても頭が上がらないはずだよなぁ、と、一つしか年の違わない美しいひとの背中を、直巳は悔しさ半分感謝半分で見送った。

 そして晴海楼を出た直巳が真澄の長屋に押しかけて酒に誘うと、彼は当たり前のように、嫌ですよ俺もう寝るとこなんで、と返してきた。

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