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結局直巳は明石花魁の部屋に踏み込まなかった。情夫とも強姦とも言い切れない妙な状況をいきなり眼前に見せつけられ、自然と面倒を避けてしまった。
一度こちらも状況を整理して、気を落ちつけてから明石ときちんと話をしなくてはならないだろう。
そう自分に言いわけしていたが、本当は間抜けに明石の部屋から逃亡したのは、違う理由からだと自覚もしていた。
あの部屋にあるなにかが、直巳の割り込みを許さなかった。そのなにか、が具体的になんであるかは分からない。明石花魁とその弟の間にある、血縁か恨みか愛情か。それとも、行灯の光の中に見てしまった、あの夜の自分の姿か。
明石花魁とその弟の情交を、動こうとすると長い間同じ姿勢で固まっていた身体の節がギシギシするほど鑑賞した後、直巳はそそくさと晴海楼から逃げ出そうとした。真澄を呼びつけて一杯やり、その後家へ帰って体勢を立て直すつもりだったのである。
しかしその背に声をかける女が一人。
「直巳。」
さっぱりと秋風のように香るその声は、野分花魁だ。
直巳が女衒稼業に入ったばかりの頃、自分の食い扶持さえ稼げなかった直巳に、自分の禿にするように飯を食わせてくれたのは野分花魁だ。だから今でも直巳は野分花魁には頭が上がらない。
はい、なんでしょうか、とおとなしく振り返ると、そこには完璧に夜化粧をしたすらりと背の高い花魁が、不機嫌そうな顔をして立っていた。
いくらきつく眉を顰めていても、その美貌がまるで損なわれることがないのは、もう一種の自然界の掟みたいに思われた。際立ってうつくしい女は、どんな顔をしていても必ずうつくしい。
「明石の情夫を見てきたんでしょう? なんで追い出さないのよ。あの男ができてから、明石はまるで商売に身が入ってないのよ。そのあたり言い聞かせて男と手を切らせるのもあんたの仕事でしょう。」
数秒間の躊躇いの後、直巳は野分花魁との距離を大股一歩で詰め、その耳元にこそこそと囁きかけた。
「あれ、情夫じゃないです、弟です。」
まさか、と、野分の真赤な唇が直巳を見下すように笑みの形を作る。
「野分の弟? あの髪結いが? あの子、農家の娘でしょ。」
「髪結い?」
「そうよ。腕がいいって評判になって、招福楼の蛍花魁や朝緋楼の六条花魁も贔屓にしてるわ。」
数年前まで山中の貧農だった少年が、腕利きの髪結いとして洒落者ぞろいの花魁たちに贔屓にされているのは、確かに異常だった。
あれは明石花魁の弟に顔立ちが似ている童顔の男が、戯れに彼女を姉など呼んでみていただけの話だったのだろうか。それにしては、全身にねばりつくような嫌な気配が部屋中に立ち込めていた気がするのだけれど。
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