11
空蝉花魁は柳沢雪保に身請けされることに決まった。女将と天下茶館の主との間で話はすぐにまとまり、空蝉も否とは言わなかった。
「いい話よね。お妾じゃなくて、本妻になんて話、めったにないもの。」
空蝉は自分の言葉を一言一言確かめるように噛みしめ、何度も何度も小刻みに頷いた。 彼女は、自分が命を救った雪保と、言葉の一つも交わしたことはないはずだった。
「いい話だな。おまけにシーフードバーの経営も始めようっていうんだから。お前、魚だのなんだの、好きだろう。」
傍らでところてんの器を持ったままじっと赤い鼻緒を見つめている花魁の肩を、直巳は宥めるように軽く揺さぶった。
「いい話だよ。本当に。」
ちりりと、屋台の屋根に吊るされた風鈴が涼しい音を立てる。赤い毛氈の張られた縁台に腰を下したまま、手だけ伸ばして、直巳は空になった白地に青い柄の器を店主に返す。
空蝉の手元のそれはほとんど減ることなく、夕日に照らされたところてんが濃い杏子色にたゆとう。
「好きだろう、ここのところてん。早く食っちまいなよ、温くなる。髪結いだってしないとならないだろう。」
「……うん。」
また顔を伏せた空蝉の項で、簪で束ねただけの洗い髪の後れ毛が頼りなく揺らめく。彼女らしくない、煮え切らない態度だった。
「どうしたんだよ、花魁。」
「私、前借金が返せたら、海女に戻るつもりだったの。」
つるり、と、空蝉の紅をささずとも赤い唇に、ところてんが吸いこまれていく。
直巳はなにも言わずぼんやりと、滴るような杏子色に暮れゆく空を眺めた。
「でも、年季が空けるにはまだ四年ある。その間に病気にでもなったら借金はかさむし、体壊して死んじゃう姐さんたちも見てきた。」
直巳はやはりなにも言わない。こういうときは、聞いているよという顔だけしてじっと空を見ているのが一番いいと、経験上知っていた。
「だから、この話を受けた方がいいって思ってるの。だって、海には行けるでしょう、誰の奥さんになったって。」
行けるよ、と、直巳はそれだけ返した。
瞼の裏には、10年近く前に海辺で見た、金色に光る空蝉の後姿が浮かんでいた。真っ黒に日に焼けて、人は海から出てきて海へ帰るのだと疑うことなく信じているような、海鳥みたいに寂しい目をしていた。
彼女の母と兄は、海に飲まれて死んだという。
行けるよ、ともう一度直巳が繰り返すと、空蝉はところてんの器の中に一滴涙を落とした。たった一粒だけの涙は、花魁の頬を濡らしさえしなかった。
その二週間後、空蝉花魁は目に眩しいような白無垢を着て、桜橋を渡って桜町を出て行った。
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