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真澄の仕事に付き合った後、夕方まだ灯の入らない晴海楼に顔を出すと、明らかに空気がいつもと違った。妓楼全体がざわざわと浮ついている。

 「なにかあったんですか。」

 「直巳さんね。入んなさい。」

 直巳は正面玄関横にある女将の部屋の襖を開けた。すると中には女将だけではなく、浴衣姿に洗い髪の空蝉花魁もちょこんと座っていた。

 飴色の大黒柱に真ん中をぶち抜かれた、狭い部屋である。柱の奥は女将の住居スペースという不文律があり、空蝉も女将も、柱の手前に赤い座布団を敷いて向かい合って座っている。直巳は己の作品である空蝉の隣に腰を落ち着け、なにがあったんですか、ともう一度問い直す。

 「いい話よ。空蝉に身請けの話がきたの。」

 そんな話は聞いていないし、そんな素振りだってしていなかっただろう、と、直巳は驚いて傍らの花魁を見やる。洗いざらしの白い浴衣を着た空蝉は、まだほんの少女のようにも見えた。

 「ついさっき、話が来たんです。」

 空蝉は、自分を育てた男に遠慮をするように、小さな声でそう付け加えた。

 「相手は誰ですか?」

 「天花茶館の跡取り息子、それも、ちゃんと奥方にって。」

 女将の口調は随分とはずんでいる。晴海楼きっての売れっ妓である空蝉だ。身請けにはちょっと信じられないような金額が動くのだろう。

 天花茶館の跡取り息子。

 直巳は昨日自分を抱いた男をぼんやりと思いだす。

 明るいところで見ていないので、顔立ちははっきりと思いだせない。思いだせるのは、体温や体重や体臭や、もっと生々しく身体的なものばかりだ。

 女将の細いがたくましさを感じさせる手の中で、キセルがぽんぽんと拍子をとる。

 「今の社長さんが引退したら、お店は息子にではなくて今の副社長に任せるそうよ。女将さんくらいはしっかりしたのを店に出したいから、うちの空蝉をって。シーフードバーみたいなお店を出そうって計画があるそうで、このこなら漁師の娘だから海産物には詳しいでしょう。このこ、苦労してるからしっかり者だしよく働くし、なにより坊ちゃんの命の恩人ですものね。」

 女将の低く流れる声を聞きながら、直巳はただただ頷く。女を売り買いし、仕込の手伝いもし、店に出た後もなにかと毒抜きをさせるまでが女衒の仕事だと師匠は言っていた。しかし身請けの話となると、動くのは妓楼の主と花魁自身だ。

 「あんまりできのいい息子じゃないみたいね。」

 何気なく女将が言った。直巳はそれにも頷いた。親不孝をしてきたのだ。直巳も、柳沢雪保も。



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