天花茶館の跡取り息子となると、その辺の隅っこに転がしておくわけにもいかない。直巳は空いていた客室に客用布団を敷き、浴衣に着替えさせた男を寝かせた。

 ちなみにここに来るまで男は、意識ははっきりしているものの足もとがおぼつかなかったため、直巳が肩を貸して運んだ。

 勿論真澄にも反対の肩を支えてやるように言ったのだが、嫌ですよ、濡れるし重いから、とのことであった。

 「若さん、お名前は?」

 布団の傍らに膝を折った直巳が問うと、男は大儀そうに大の字になったまま、柳沢雪保と呻った。

 「お父様が本日ご登楼なさっているから、すぐにお呼びしますね。」

 「……呼ぶな。」

 「そうもまいりませんから。真澄、」

 ここで柳沢さんのお相手をしろ、と言いかけて、いつのまにか真澄が消えていることに気が付く。面倒くさいことに極力首を突っ込まない姿勢も、ここまでくれば見事なものだ。

 直巳は浅いため息をつき、柳沢雪保に深めの会釈をしてから座敷を出ようとした。

 すると線の細い茶屋の息子は、人に命令しなれた口調で、煙草盆、と言った。

 直巳は内心呆れながら、部屋の隅に片付けられていた煙草盆を布団の際に置き、改めて座敷を出た。

 するとちょうどそのタイミングで、野分花魁が廓の中央を突っ切る長い黒檀の階段を小走りに降りてきた。

 相変わらず名の通り、冷たくも清々しい風のような美貌である。

 「野分花魁、ちょっと。」

 呼びとめると野分は、くるりと白い顔を直巳に向けて立ち止まった。

 「なに? あ、政さん六番のお座敷に冷持ってって。」

 下働きの男が、はい、と女神に託宣を受けたかのように厨房に駆けて行くのを見送ってから、野分が顎先の動作だけで直巳に先を促す。

 「今日、天花茶館の旦那様、いらしてますよね。」

 「そうよ。今の六番のお座敷。」

 「それが、そこの跡取り息子さんがさっき桜橋から身を投げましてね。空蝉花魁がすぐ助けたんで大事はなくて、今はもう平気で煙草なんて吸ってるんですけど、お父様のお耳に入れておいた方がいいかと思いまして。」

 「あら。」

 話を聞いた花魁は、紅が艶やかに光る口元を袖で隠してさも可笑しそうに笑った。

 この花魁の微笑は不思議だ。明るく華やかであるのは確かなのに、それ以上にその場の気温を一度二度下げる。昔、直巳がまだ若かった頃は、この冷ややかな微笑がどことなく恐ろしかったのを覚えている。

 「さすが空蝉花魁ね。あなたの傑作はほんとうにおもしろい子。」

 「……お褒め頂いて。」

 「旦那さんには私からすぐ申し伝えますわ。今、坊ちゃんはどこに?」

 「一番の座敷に。」

 「そう。分かったわ。」

 「お願いします。」

 直巳は深々と花魁に頭を下げ、茶屋の息子が寝たまま煙草をふかしているのであろう座敷に戻った。

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