そこまで言葉を交わしてようやく、空蝉花魁と直巳は足元に転がっている、さっきまで溺れていたはた迷惑な男に目を落とした。

 藤色の着物を着ていた女郎は、どこに行ったのかもう見当たらない。話が大きくならない内に逃げだしたのだとしたら、この男も大した上客ではないのだろうし、助けが早かったからか息をしっかりしているので、ここまで放っておいたのだ。だからといって、ずっとここに置いておくわけにもいかないし……。

 さてどうしようか、と直巳が一つ息をつくと、花魁はいたずらっぽく笑って彼の肩をポンと叩いた。

 「この人も一緒に連れてっておいてよ直さん。」

 「連れてってって、空蝉花魁の知り合いなのかい?」

 「知り合いっていうか……天花茶館の跡取り息子でしょう。」

 「え?」

 天花茶館といえば、お茶屋の老舗の大店である。

 驚いた直巳は、足もとに仰向けに転がっている男の顔をしげしげと見おろす。見覚えのないアホ面だが、言われてみればなんとなく育ちの良さが滲む顔立ちのような気がするから不思議だった。

 花魁は得意げに笑みを深みる。蝋で出来たように白い両頬には、かわいらしいえくぼができる。

 「時々ここいらで遊んでるのよ。大してお金使ってるわけでもないみたいだから、本当にお遊びね。決まった相手もいないみたいだし。一回お茶屋さんでちらっと顔を見たことがあるわ。あそこのご主人は野分花魁のお客だから、連絡はつくでしょう。」

 「……よく茶屋でちらっと見ただけの男がこの暗さで分かったな。」

 しかも、毎夜桜町をふらついている直巳でも見覚えのないこの男の遊び方まで空蝉は承知しているらしい。

 直巳は心底感心して、ずぶ濡れのぼさぼさ髪でもまだきれいな花魁をしげしげと眺めた。

 「顔を覚えるのは得意なのよ。直さん昔褒めてくれたじゃない。」

 確かにずっと前、この美しい女がまだ店に出始めだった頃、決して自分の客の顔と名前を忘れないところを褒めたことはあるが、さすがにここまでの記憶力とは思っていなかった。

 それにあの頃は、田舎上りの彼女はなかなか売れなくって、褒めるところをせっせと探して褒めたうちの一つだった気もする。

 しきりに感心する直巳に、照れたように肩を竦め、空蝉は長い髪から滴る雫をざっと絞る。

 その動作はとても自然で、彼女が日本海の底まで潜って貝やら雲丹やらを取っていた時代をしのばせた。微かに潮風の匂いまで漂うような、真っ黒に日焼けして男の子みたいだったかつての面影が顔を出すような、そんな仕草だったのだ。


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