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直巳は思わず苦笑して、禿の肩に手をかけた。
「大丈夫だ。じきに花魁は上がってくる。怒られるから、早く着物を畳みなさい。」
直巳は川に飛び込んでいった花魁をよく知っていた。なにせその女を貧しい漁師の家から買ってきて、晴海楼に売ったのはこの直巳なのである。
空蝉花魁、と呼ばれるようになったあの女は、もとは波の高い日本海で海女さえやっていたのである。流れのほとんどない桜川など、空蝉にとってはちょっとしたプールみたいなものだろう。
「でも、花魁が、」
こはるはふくふくと白い頬に涙を滴らせながら、直巳の腕を掴んで揺さぶった。
「大丈夫。花魁は泳ぐのが上手いから。」
それだけ言い置いて、直巳は群がるやじ馬をかき分けて桜川の土手へ降りた。青草が生い茂った急な土手は下駄履きの足には危うかったが、辛うじて格好をつけたまま下まで降りられた。
「空蝉、空蝉、」
何度か川面に呼びかけると、すぐ近くでばさりと水音がした。ほんの一メートルほど先の川面に、白い女の顔が浮かんでいる。
「直さん、そっちまで泳いで行くから、この人引き揚げて頂戴。」
この人、というのは花魁が襟首を口にくわえて引っ張っている男の事だろう。
直巳は、おい、降りて来い、と橋の欄干に寄りかかってつまらなさそうに立っている連れの男を呼び寄せる。
「嫌ですよ。濡れるでしょう。土手は急だから危ないし。それにもし落ちたら、俺は泳げないんですよ。」
土手の上までは渋々やって来て、平然と言ってのけるのは、直巳と同じ稼業に入ったばかりの真澄である。そういうところがダメでまともな商売ができなかったんだろうお前は、と言いたいところをぐっとこらえ、直巳は真澄を呼び寄せることを諦めた。
すいすいと白い両手を水に遊ばせて泳いできた空蝉は、真白い歯で咥えた襟首を直巳に突きだす。直巳はなんとかその男の脇に腕を突っ込み、土手に引き上げた。
「面白いのね、あの人。あんなにはっきり嫌だって言われると、気持ちがいいくらい。」
男一人咥えて夜中の川を泳いだ花魁は、余裕の表情で陸に上がった。その身のこなしには疲れの色などまるで見えない。
「久しぶりに泳いだわ。なんだか肩が軽くなったみたい。」
ぐるぐるとおどけて肩を回して見せてから、花魁はこれまた身軽にひょいとまたぐように土手を上り、彼女の着物やら簪の山を抱きしめてめそめそ泣いているこはるを手招いた。
「こはる。私はいったん着がえてくるから、先にお店へ帰ってお客さんにちょっと遅れますって言ってきて頂戴。」
文字通りころころ転がるように花魁に駆け寄ったこはるは、脚がぶるぶる震えて到底先に店に一人でいけるような状況ではない。
「俺が行くよ。こはるちゃんには着物を持って一緒に帰ってもらいな。」
「そう? 悪いわね。」
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