第3話:林田という男
「無事で何よりだ。」
少女マンガの主人公なら、ここでときめいて恋に落ちるんだろうけど、残念ながら今の私はそんなことをしている場合ではない。
「...な、何で貴方がここにいるんですか...!?え、えーと...」
「林田多嘉志、ね。」
「そ、そうだった、林田さん...!!」
「ここにいる理由?あー、まあ、救急車呼んだの俺だし、保護者が誰かも分からんから、とりあえず起きるまで見守ってたって感じ?ほら、起きた時に一人だと状況とか飲み込みづらいでしょ。」
「...え。」
素直に良い人なのか、と考えそうになって、ふと踏みとどまった。
思い出したのだ。こいつが私に傘を貸した理由を。私は出来るだけ視線を鋭くしてもう一度尋ねた。
「...で、本当の理由は?」
「あぐ。」
林田は、痛いところを突かれたような声を出してガックリと肩を落とした。マンガでもあるまいし、ここまであからさまに肩を落とす人は初めて見た。
「...傘を返してもらうという名目で、もう一回会おうとしてました、ハイ。同じ曜日の同じ時間なら、ワンチャン遭遇できると思って。でもまさか、あんなアクシデントの現場に居合わせるなんて思ってもみなかったよ。」
...やっぱりだ。気持ちのいいほど自分の欲望に忠実な男だ。悪人であることに変わりはないが、それを偽善の仮面に隠す普通の人間よりはマシだ。ここまでくると、逆に清々しくすら思う。私は、呆れ気味に尋ねた。
「...じゃあ、私を助けた理由は何ですか?」
「え、そんなもん反射に決まってんだろうよ。」
「...え?」
「あんたを轢いたダンプの運転手、あのまま逃げやがったから、番号控えて通報して、救急車も呼んだんだよ。目の前に怪我人いるのに放っとくアホは居らんでしょうよ。」
そう言われると即座に、いつもの癖が発動してしまった。
私は、湧き上がる怒りのままに彼を睨みつける。
「...嘘言わないでください。」
「ほへ?」
「そんなこと言っても無駄です。分かってますから。私に恩を着せたいんですよね。分かりました。恩には着ますから、これ以上私に干渉しないでください。」
「...ほう...。」
だが、彼は怯むでもなく怒るでもなく、目を細めて少し口角を上げた。
「君、面白いね。」
「...っ!?」
「俺以外で他人のことをそんな風に見ている人間は初めて見たよ。面白いね、君のその思考というか、信条というか。」
「え...?」
私は一瞬、彼のその言葉に引っ掛かりを覚えた。
「『俺以外で』って...?」
すると彼は、嬉しそうに笑って言った。
「この世の善は全て偽善。俺はそう思ってるよ。今の俺の状況も含めて、ね。」
「...!」
しばし呆然としていた私だったが、病院から連絡を受けて血相を変えてやってきた母親の登場によって、彼との会話は終わってしまった。
「静、静!!大丈夫だったの!?」
「...あ、うん...。」
「そちらの方が、林田さんですか...?」
「あ、親御さんですか。どうも、林田です。娘さんに貸した傘を返してもらおうと思って会いに行ったら、たまたま事故現場に居合わせちゃいまして。」
すると母は、体が折れんばかりに彼に頭を下げた。
「警察の方々から聞きました。救急車を呼んでくれただけでなく、轢き逃げした運転手の逮捕にまでご協力いただいたとか...!ありがとうございます、この恩は忘れません...!!」
すると彼は、急にあたふたしながら返答した。
「い、いや、別にいいんですよ。流石に怪我人がいたら助けるのは当たり前じゃないですか。じゃ、私は用事がありますので、これで...」
彼はそれだけ言うと、逃げ帰るように病室を後にした。
「...全ての善は偽善、か...。」
私はその言葉が、いつか潰れた胸の中に、スッと嵌まったような気分になった。
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数日後の休日、私は母から渡された菓子折りと借り物の傘を持って、大きめの一軒家の前に来ていた。
後でお礼をしに行くようにと、警察の人が彼の連絡先を教えてくれたのだった。
買い物すら、同級生に見つからないように近所のコンビニでコソコソ済ませるほどの引きこもりにとっては、隣の市まで一人で外出するなど旅行並みの遠出だ。六月末の暑さにふらつきながら、なんとか家の前までやってきたという次第だ。
震えて力の入らない指に精一杯の力を込めてインターホンのボタンを押す。
感じの良い軽やかな返事と共に中から出てきたのは、彼と同じくらいの歳と思われる、さわやかなショートヘアの長身の女性だった。おそらく彼の姉か妹だろう。
スラッとした体型を際立たせる、ワイシャツにパンツスタイルの大人な女性を見て、自分の体型に一種の憎悪を抱きつつ、端的に要点を述べた。
「...林田多嘉志さんはいらっしゃいますか。先日助けていただいたお礼に参りました。」
すると彼女は目を丸くして、
「....マジか。」
とだけ言うと、少し考え込むように指を口元に当てた後、
「...それ、本当にうちの多嘉志か?同姓同名の別人だったりしないか?」
と、恐る恐る聞いてきた。
家の中で彼がどういう扱いになっているのかは気になったが、とりあえず彼から借りた傘を見せると、彼の字だと判断して私を家に招き入れた。
客間につながる短い廊下から伸びる階段の上に向かって、女性は大声を張り上げた。
「多嘉志ー!あんたに客が来てるぞー!」
すると程なくして彼が降りて来て、私の顔を見るなりにっこりと笑った。
私はそれに強烈な寒気を覚え、案内される前に客間に逃げ込んだ。
客間は、障子に畳と和風な造りだった。
私たち二人を座らせた女性は、てきぱきとお茶やらお菓子やらを客間のテーブルに並べ、「それではごゆっくり。」と清々しい笑顔で言って、スパンと素早く戸を閉めた。
彼に勧められて、私はお茶を一口飲んだ。深い味わいの濃いめの緑茶で、不思議と心が落ち着く。彼もお茶を一口飲むと、話を切り出した。
「...それで急に尋ねてくるなんて、どうしたんだい?」
...分かりきっているであろうに私の口から言わせることも、この男の狙いなのだろう。...が、曲がりなりにも私はこの人に助けられた身。彼に感謝する義務はある。
我ながら不遜な態度に、自分でも嫌気がさしながら彼に菓子折りの包みを差し出した。
「...この前のお礼です。つまらないものですが、よかったらどうぞ。」
「あ、ありがとう...。」
彼は、少し戸惑いつつそれを受け取った。この前の母との会話の時といい、この人、感謝されることに慣れていないのだろうか。これだけお人好しを演じていれば、他人から感謝の一つや二つ、されそうなものだが。
用事を終えてしまうと、話すこともなくなり、互いにただ無言で茶をすするだけの時間になってしまった。引きこもり女子にとって、男子の家でお茶をするなんてのがどれだけハードルの高いことか。
私が無言の空間に耐えられなくなる寸前で、碗を置いた彼が静かに問うてきた。
「君、名前は。」
そうだった。私から彼に名乗ったことは一度もなかった。...っていうか、名前も知らない女に対して傘を貸したり病院まで付き添ったりしてたってことか...!?
細かい疑問点は尽きないが、とりあえず名乗らなければ。
「...落田、静です。」
「ほう。静っていうんだ。君に似合ってる名前だね。それじゃあ静さん、」
「...?」
「君が人間をどう見ているか、そのことについて非常に興味がある。どうか聞かせてはくれないか。」
彼は、目を輝かせてそう言った。
...どうやら彼は、地雷を見つけたらそっと撤去するのではなく、岩を投げ込むタイプの人間らしいということがわかった。
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