第2話:本当は







日が高々と照る昼下がり。


頭の両脇に跳ねた髪を直して、身支度を整えて玄関を出る。傍に置いてあった白いビニール傘を手に提げて、私はバス停へと向かった。


バスが向かう先は、学校前のバス停。

だが、今日は学校には用はない。先日借りた傘を返しに行くのだ。

安っぽいビニール傘ではあったが、借りたままパクったりしたら、後でどんな因縁をつけられるか分かったものじゃないし、第一あいつは私を口説く目的で傘を貸し付けてきたのだ。早く返さないと、これをダシに何を要求してくるか...。


嫌な想像ばかりが膨らむうちに、バス停に着いた。先日と同じなら、もう少しで彼はここに来るはずだ。

私は恐れと疑いを胸に、彼の来るのを待った。





しかしその日は、彼は現れなかった。

その日だけではない。次の日も、その次の日も彼は現れることはなく、私の恐怖はどんどん膨らんでいった。


「...あああ...、きっと、わざと時間をずらして私に出くわさないようにしてるんだ...。それで頃合いを見計らって現れて、傘を返さなかったことにイチャモンをつけて、窃盗だ何だと脅すつもりだ...。」


人間なんてそんなことしか考えられないような生き物だし。ましてや性欲の奴隷である男なんてのは、もっと碌なものじゃない。

日に日に積み重なる恐怖に、その日私は半ば震えながら帰りのバスに乗り込んだ。









信号で止まったバスの窓から、ふと二、三人の高校生が自転車で連なって走っていくのが見えた。

彼らのうちの誰もが、顔いっぱいに笑顔を浮かべて喋りながら走っていった。


....羨ましかった。

私だって、生まれた時から他人の不幸を見るのが好きだったわけじゃないし、他人に優しくされれば嬉しかった。

...でも、いつからか私はこうなっていた。他人が苦しんでいる様を見て笑う、救いようのない悪人になっていた。


どうしてこうなってしまったのかは分からない。いつからこうなったのかも分からない。たった一つだけ分かることといえば、どう言い訳しようが、私は悪人なのだということ。


そう思えば、今感じている不安も、叶わない羨望も、全て悪人たる私への罰なのだと思うことができた。

それはちょっとした救いであると同時に、私が悪人であることの証明になってしまうロジックでもあった。





それからというもの、いつ学校前のバス停に行っても、彼が現れることはなかった。長い時では一時間以上待っても、彼は現れなかった。

その頃になってくると先日抱いたような不安は薄れていき、私は、彼は私に傘を貸したことを忘れているらしいという結論に行き着いた。






しかしそれは、次のスクーリングの日のことだった。


カラッと晴れた陽気の下、例の傘を持ってくるのも忘れて学校へ向かうバスに乗り込んだ。

そしていつもの如く、転んで泣いている子供を見て口角を上げ、それを助け起こす兄と思しき少年に眉をひそめ、そして、自分の悪人ぶりに嫌気が差す。


生物の授業で習ったセントラルドグマのように、その一方通行に苛まれながら、バスに揺られて学校に着いていた。

深いため息と共に、少し古びた校門をくぐり、毎度の如く死んだ目になって出てきた。







この繰り返しにも、辛くはあるがある程度慣れてきてはいた。

ところが、慣れた時ほど気をつけろとはよく言ったもので、死んだ目を伏せながら横断歩道を渡っていると、焦りの混じった誰かの叫び声と共に、突如横から急ブレーキを踏むような音が聞こえた。

一瞬飛び上がってそちらに目をやると、それはもう目の前まで迫ったダンプカーが目に入った。


ドン、という鈍い衝撃とともに、体が宙に浮いた。幸い、走って転ぶくらいのスピードだったので大きな怪我はしなそうだった。

...だが、今思えばその油断が良くなかったのだ。


地面に手をつこうとした時、指が肩にかけたバッグの紐に引っ掛かり、手を伸ばすのがワンテンポ遅れてしまったのだ。

そうなれば何が起きるか、言うまでもない。

ガンっという音が聞こえそうな衝撃が頭蓋骨に響き、視界は焦点を失ってぼやけた。


「....誰か、....助け...」


グラグラ揺れる思考の中。気づけば私は本能的に、こんなことを口走っていた。だが、それを私の思考が否定する間もなく、私の意識は途切れた。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





ぼやけた視界に映っていたのは、今よりいくらか若い母の姿だった。片腕で赤ちゃんを抱っこしながら、家計簿をつけている。


母は、少し寂しそうに言った。


「ごめんね、静。今日の授業参観は行けないかもしれない。」


「ええ!?何で!」


あきらのお世話が忙しくなければ行けるけど、あんまり期待はしないでねってこと。大丈夫よ、来年もあるんだから。」


「...うん...。」


母は、少し困ったように笑みを浮かべて立ち上がり、私の頭を撫でてくれた。


母の背が随分高く見えた。っていうか、実際今より高い気がする。


そして、学校に行って算数の授業を受け終わり、授業参観の時間になると、皆、急にテキパキと動き出す。

後ろを見れば、皆のお母さん方が続々と入ってきては、めいめいに配布資料を見たり、我が子を目で追ったりしていた。


そんな中、みんなの注目は一人の女性に集まった。

まだ一歳にもならなそうな小さな赤ちゃんを抱っこした、若い女性。私の母だ。大方、不満げだった私の反応を見かねて来てしまったのだろう。


母たちの視線の元、道徳の授業が始まった。


最初こそみんな静かに聞いていたのだが、授業も中盤に差し掛かった頃、急に後ろから、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。


『...朗、静かにして...。』


小声で言った私の頼みなど聞くはずもなく、朗はとうとう大声をあげて泣き始めた。

すぐに母は教室を出たのだが、泣き声は教室の外からもかなり響いて、一部の児童たちは、既にぶつぶつ文句を言い始めた。


母はそのまま、朗を連れて帰ってしまったようで、私は肩身の狭い思いで授業を受け終え、保護者たちは懇談会のために別室に移った。





「なあ、あの赤ちゃんマジで空気読めてねえよな。」


「赤ちゃんなんだから、しょうがないだろ。」


「でもさあ、授業参観に赤ちゃん連れてくる親って何なん?絶対泣くって分かってんのにさ。ジャマしたいのかな?」


「それなー。誰の親?」


「落田って書いてあったぜー。シズカじゃね?」


「おいシズカ、お前の親マジで迷惑なんだけどー。」


その一言に、私の我慢は限界を迎えた。

お母さんは、私のために無理して来てくれたんだ。それを悪く言われるのは耐えられない。


「....黙って。」


「は。」


「お母さんは悪くない!!!みんな黙って!!!」


だが、小学生というのは単純なものであって、こんなことを言えば何が起こるかは、火を見るより明らかだった。


数人のクラスメートが私を取り囲む形になって、私に次々と暴言を浴びせ始めた。


「はあ!?黙るのはそっちだろ!!うるせえ弟連れて来やがって!!」


「こっちは授業中にうるさくされたんだよ!!文句言って何が悪いの!?」


「うわ、最悪。やっぱ空気読めない家族だわー。」


「うわー、暴言吐かれたー。マジで死ねよお前。」


「先生ー、落田さんがひどいこと言ってきましたー。」


その他のクラスメートも、遠巻きに見ているか興味がないと言わんばかりに帰る準備を進めるだけで、私の味方なんてものは、無論ゼロだった。


数というのは素晴らしいもので、私はあの後見事に悪役に仕立て上げられ、授業を邪魔したことも含めて先生にこっぴどく叱られることになった。

適当な先生だったので、数人の児童から報告を受けるや否や、私の言い分など聞きもせずに私を責め始めた。


そして、説教で二時間近く拘束した挙句、遅くに生徒を一人で帰らせると自分が怒られるからと言って母を呼びつけ、赤ん坊を連れてきたことで母も責めた後、追い出すように私たちを帰した。


帰り道、母は私に言ってくれた。


「静。ごめんね。静に辛い思いさせるなんて、思ってなかった。」


その時の母の悲しげな顔は、私の胸を完全に押し潰した。





...お母さん、違う、お母さんのせいじゃない。


私が悪いの。わがまま言った私が悪いの。


私が悪い。私が、悪い。


私は、悪い。






....私は、悪人。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




ハッとして目を覚ますと、白い色が視界いっぱいに飛び込んできた。冷たいシーツと布団に挟まれ、体は何だか怠い。


頭の横を襲うガンガンした痛みに耐えながら顔を起こすと、聞き覚えのある男の声がした。


「よう。目、覚めたかい?」


恐る恐るそちらを見遣った私は、恐怖というより驚きで硬直した。


「....あ、貴方、は....」


「そんなに固まんなくても大丈夫だよ。無事で何よりだ。」


ニコニコしながら話しかけてくるこの男。


忘れもしない、あの時の青年だった。


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