第1話:悪人
寝癖のついた長い後ろ髪を、櫛で適当にとかした後、何日着たかわからないジャージを脱ぎ、それほど着慣れていない白のパーカーと黒っぽいロングスカートに着替えた。伸ばしっぱなしで視界を塞ぎかけていた前髪も、今日は右に寄せてピンで留める。
面倒だが、今日はスクーリングの日なのだから仕方がない。シリアルで軽く朝食を済ませると、やたら重く感じるバッグを肩にかけて、バス停へ向かう。
私が通っている高陵高校は、定時と通信制のどちらでも通える。小学生で引きこもりデビューを果たした私にとって通信制以外の選択肢は見当たらず、結果、俗に受け皿校と呼ばれるこの高校に進学したのだ。頭は良くも悪くもなかったし、本だけはたくさん読んでいたため国語の点数だけ異常に高く合格は容易だった。
何気ない回想を終わらせた私は、ふと顔を上げた。バスの車窓から見える空は、段々と曇ってきていた。朝の天気予報では降水確率は10%くらいだと言っていたが、傘を持ってくるべきだったか。
人の少ないバス停を二つ三つ経由したバスは、私と同じように重そうなバッグを持った数人の若者を乗せ、さほどかからずに高校近くの寂れたバス停に止まった。
そこで数人の若者と一緒にバスを降り、何を考えるでもなく無機質に学校へと歩を進める。
曲がりなりにも県庁所在地だというのに、賑やかさなんてものはここにはない。四階建て以上の建物なんて滅多になく、街灯や電柱などの道路沿いのインフラは全て茶色一色。味気ないことこの上ないが、景色のうるさい都会よりはマシだ。
...この街の景観には、救われる。街には善も悪もない。ただ目的の為に作られて、ただそこにあるだけ。そんな在り方に、憧れた。
その時、後ろの方からガシャンという痛々しい音がした。振り向くと、横転した自転車とその近くに倒れる男子生徒。近くの人たちが駆け寄って助け起こしているが、足を捻ったのか、まともに歩けていない。
....ああ、可哀想に。そう思いつつ私は、意識せず口の端が少し上がるのを感じた。ふっ、という笑い声が口から出かかる。
これが私の癖。他人の不幸を見ると、体の中におかしな嬉しさが込み上げてくるのだ。俗に言うサディスティックというものとは少し違う。自分で痛めつけるのは趣味ではないから。
そして、私の視線は少し横にずれる。
そこにはまともに歩けなくなっている少年に肩を貸す、友人と思われる男子生徒。彼を見た私は、頭がモヤっとして、すぐさまそこが憎悪でいっぱいになる。
...くだらない。彼は善意でやっているのだろうが、その実その行為は、善いことをした気分になって自分を肯定したいという感情だけに起因するものだ。
これを聞いた人がいたとしたら、彼の心が覗けるわけでもないのに、何を勝手なことを言っているんだと思うかもしれない。
だけど、これは単なる憶測じゃない。これは紛れもない事実。人間なんてみんな、そんな理由でしか行動できない生き物だ。
...そして一連の感情の流れが過ぎ去ると、決まっていつも、どうしようもないやるせなさに襲われるのだ。
理由は、簡単だ。
人の不幸に笑みを浮かべ、人の善意を嘲る。
私は、そんな自分が大嫌いだからだ。
人間なんて、みんな悪人で、偽善者だ。私だってそうだ。
だから私は、人間が嫌いだ。私も、他人も、みんな。
頭の中でモヤモヤと考えているうちに、気づけば校門をくぐっていた。
....今日も私は、悪人にまみれた世界で過ごす。その私とて、悪人の一人だ。
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放課後の校庭を抜けて、私は俯きながら歩く。
......ああ、これだから外出なんてするものじゃなかったんだ。
帰る頃にはもう既に、意気消沈を通り越して死にたいレベルの自己嫌悪に苛まれていた。
今日だけで何度、人の不幸を嗤っただろう。どれだけ人の善意を恨んだだろう。...私は、どこまで悪人になれば気が済むのだろうか。
ため息と共に上履きから靴に履き替えて外に出たが、校門を出たあたりで、鼻先にピトンと冷たいものが当たる。
...しまった、降ってきた。
バス停まで行ったが、かなり小規模なバス停なので天井のある待合所などは無く、いっそう強くなりだした雨が、肩や髪を濡らしていった。
時刻表を見たが、バスが来るまでにはあと十数分ある。周りを見渡せど、さびれた路地にはコンビニの一軒すら見当たらない。
...まあ、いいだろう。私みたいな悪人には、当然の仕打ちだろうから。
そう自分に言い聞かせることで最初こそ誤魔化せていたものの、段々と雨水が服に染みてくるにつれて、強がりはきかなくなってきた。
....いつから、こんなになっちゃったんだっけ。悪人になりたい訳じゃ、なかったのに。
そう思うと、目頭がだんだん熱くなってくる。
...ああ、もういいや。帰ったら、全部捨てて楽になりたい。
私の心が限界を迎えようとしたその時、頭を打つ雨粒がスッと消えた。驚きと共に横を見ると、一人の青年が私にビニール傘をさしていた。
やや面長でクセのない黒髪の、まあまあ整った顔の青年だった。
「風邪ひくぞ。これ持ってろ。」
低い声でそう言って私に傘を押し付け、自分は折り畳み傘をバッグから取り出して開こうとするも、傘の骨がうまく張らずに四苦八苦していた。
そうしている間にも、雨は彼の服に染み込んでいく。
....図らずも胸の奥に、怒りが沸騰し始める。
この男の善意だって、所詮は自分の利益のためでしかなく、私は現在進行形で、そのために利用されているのだから。
青年がようやっと傘を広げたのを見届けると、私は湧き上がる憎悪を抑えつつ言った。
「....何を狙ってるんですか?」
見ず知らずの人間に、自分が雨に濡れるのも厭わず傘を貸す人間など、必ず何か裏がある。それで彼が「そんなものない」と答えようと、それはそれで、彼が自己肯定のために行った偽善であることを示す言葉に他ならない。
すると彼は嫌味のない苦笑いと共に、こんなことを言い放った。
「ありゃ、気づかれてたか...。これを機に仲良くなって、ゆくゆくは口説こうかとか考えてたんだけど。」
私は少し、...いや、かなり面食らった。
ここまで自分の欲望に忠実な人間がいるとは。それに、私なんか口説いてどうするのだ。髪は伸ばしっぱなしで目は暗いし、体型だって未だ小学生に間違えられることすらある幼児体型だぞ。女性的な魅力なんて全くないだろう。
「.....?」
「安心して。俺ロリコンとかじゃないから。あ、別に君がロリに見えるとかそういう意味でもないからね?」
「な。」
...この男、おかしい。
初対面の人間に、普通そこまでズバズバ言うか?いきなりナンパしてきたと思ったら、今度は体型のことに触れてくるとか。
驚きの連続で先程までの暗い感情も忘れていたところに、ちょうどバスがやってきた。彼はそのバスには乗らず、そのままバス停に残った。
遠ざかる彼の立ち姿を車窓から眺めると、傘を返し忘れていたことに気づいた。しかし既に時遅く、彼の姿は四つ角の向こうに消えてしまっていた。
傘を見ると、柄にサインペンで「林田 多嘉志」と大きく書かれていた。
バスを降りた私は、再び彼の傘をさして家路についた。
....何だったんだ、あいつは。
自分の
私の胸の中で、何かがモヤっと動いた気がしたのは、この時だった。
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