第8話 恋ならずっと
不覚にも、泣いてしまった。同じ人の前で、それも二回も。
前回ほど大泣きしなかったものの、それでもハンカチが必要なくらいは泣いた後、絶妙のタイミングでデザートが運ばれてきた。
どこかから様子を見ていたんじゃないかと疑いたくなるほど。
届けられたベリーのたっぷり乗ったジェラートアイスのプレートを前に、暮羽はすっかり真っ赤になった目で上目遣いに直純を見返す。
コーヒーを飲んだ直純が暮羽の視線を受けて口元に笑みを浮かべた。
あ・・・またこの笑い方だ。
メガネの奥で目を細めて、柔らかく笑うけれど、感情を読ませてはくれない。
こっちはこんなに手のうちを晒しまくっているのに、彼はまだ一枚も手札を見せてはいない。
完全な敗北感。
「泣いた後は水分補給もしないとな」
穏やかな一言で向けられた視線の先には、湯気の立つティーカップ。
ストレートティーは、何だかもうふたりの間の定番になってしまった。
「・・いただきます・・相良さん、煙草吸ってきていいですよ・・?ここ禁煙ですよね」
くすんと鼻を啜って、スプーンで掬ったジェラートを口に運ぶ。
泣いたせいで火照った身体に、甘酸っぱい刺激は最高のご褒美だ。
口の中で蕩ける濃厚なバニラジェラートと、ブルーベリーやラズベリーの果実の風味が堪らない。
銘柄までは知らないが、定時後に商品部に顔を出す時には、いつも北村と煙草を吸っている直純だ。
暮羽と会ってから一度も煙草を取り出していない。
我慢させているのではと気になったが、気にしなくていいと首を横に振られた。
「会社出る前に吸ってきたから平気。それより、ジェラート、溶けるよ」
「あ、はい」
あれだけ泣いた後でよく食べれるなと呆れられるかと思ったが、直純は何も言わなかった。
グズグズと泣き続ける暮羽に狼狽える事無く付き合ってくれた彼の懐の広さには感謝しかない。
もうここまで見せたらどう思われても構うものかと綺麗にジェラートを平らげたら、自分の分のプレートまで差し出された。
こうなる事を予想して、手を付けていなかったようだ。
ちらりと確認した直純の表情は相変わらずの読めない笑顔で。
今更格好つけようがないので、素直にお礼を言って二人分のデザートを美味しく頂く。
最後の紅茶をゆっくり味わう段になって、直純が初めて表情を改めた。
空になったコーヒーカップをソーサーに戻しながら、暮羽の額を軽く弾いた。
「何かあるならちゃんと言う事。ほっとくと倒れそうだから」
★★★★★★
そんな食事会(絶対にデートでは無い)から一か月。
暮羽と直純は時間が会えばふたりで食事に行くようになった。
なんてことは無い、近況報告会だ。
これまで誰の前でも取り繕って、決して泣いたりみっともないところを見せたことがなかったのに、よりによって同じ人に二回も泣き顔を見られたのだ。(しかも二度目は確信犯)これはもう開き直るしかない。
暮羽は、直純の前では遠慮なく仕事の愚痴や悩みを打ち明けるようになっていた。
どうしてだかわからない。
けれど、この人の前で必死にいい顔しようとしても無駄だと思った。
上っ面を取り繕っても、どうしたことかすぐに直純にはばれてしまうのだ。
これでも社会人5年目である。
それなりに経験も積んで大人の女性の一員になれたと思っていたのに。
直純は暮羽の些細な表情の変化を見落とさず、すぐに武装を剥がしにかかってくる。
だから、言うつもりのなかった本音をいくつも零すことになって、そのせいで余計に距離が縮まった。
この間までの落ち込みが嘘のように、最近の自分は落ち着いていると思う。
ちょうど、瞬が展示会準備で急に忙しくなったこともあって、二次会の準備は暮羽と佳苗で進めていたので、顔を合わせなくて良かったことも幸いした。
そして、やっぱり、何より、悔しいけれど彼の前で思いきり泣けたことが、大きかった。
★★★★★★
2週間ぶりに、商品部に顔を出すことになった。
北村とはしょっちゅう内線で話したり飲みに誘われたりするので、別段久しぶりということもない。
ただ、これまでと違うのは、暮羽に会うのが久しぶりではない、ということ。
毎日では無いけれど、ちょくちょくメールのやりとりをしているし、時間が会えば食事に誘っていたので社内で会うことがなくても、社外で会うことがあったのだ。
あの状態の彼女を放っておけなくて、心配だという言い訳を大義名分にして、ずっと連絡を取り続けていた。
今の彼女との接点としては、これが一番最適だろう。
食事のお礼から始まったやり取りが、その日あったちょっとした出来事を報告されるようになって、いつの間にかそれが日課のようになっていて驚く。
2日と空けずにメールをするなんて、俺って実はマメな方だったんだろうか?
あの日見つけた、あどけない彼女をもう一度見たくて、こうして相談役を買って出たわけだが。
残念ながら、ひと月以上たった今も、彼女の相良に対する態度は、”社内の先輩”のままだ。
けれど、同時に思う。
あの時の彼女を見つけて、俺はどうしたいんだろう?
毎日、大人の顔をして日々を過ごす彼女の、別の一面を見て安心したいだけなのか?
あの時の、驚くほど心もとない彼女の表情から、微かな揺らぎが消えていたら・・・それで満足なのか?
満足?
安心?
なんのために?
この感情が、失恋現場に遭遇したことから来る一時的な感情なのか、それとも間違いなく恋情なのか、はっきりとした答えが出せていない。
それでも、連絡が来れば嬉しいし、返事が来なければ心配になる。
つまるところ、彼女の事が終始気になって仕方ないのだ。
★★★★★★
工芸に寄って、デザイン室を覗いて8階に向かう。
大抵こちらのビルに来る時にはいくつかの部署を纏めて訪問することが多い。
ついでに本部長にも軽く挨拶をして、暮羽のいる部署に辿り着いた時には午後4時を回っていた。
中に入るなり、新入社員で商品部に配属になったときからここを牛耳っていた、噂好きの藤木がにこにこと手を振ってくる。
この人に逆らうと、恐ろしい目に合うらしいので適当に挨拶をしてさっさと横を通り過ぎた。
その斜め前の席で、パソコンに向かっている暮羽を見つけた。
ちょうど、直純が北村に頼んでおいた商品の伝票を作成しているところらしい。
後ろを通りざま、彼女の頭を軽く叩く。
こうして気安く手を伸ばす事にも、随分と慣れた。
「お疲れ」
視線だけ、一瞬こちらに寄越した暮羽が口を開く。
北村が暮羽の頭をぐりぐりと撫でつけるのを見て、呆れていたが、今ならその気持ちが理解できる。
何というかこう、触れたくなるのだ。
「お疲れ様です。伝票もうちょっと待ってて下さいね」
「後5分な」
「えっ無理ですってば!10分はかかります!この量ですよ!?」
キーボードを叩く手はそのままで彼女が非難の声を上げた。
まるで北村に口答えするような言い方は初めて聞くもので、彼女の内側に入り込んだ事を実感して思わず頬が緩みそうになる。
藤木の目がキランと光る。
この人の勘の鋭さには舌を巻くが、決定打を手にするまでは口にしたくは無かった。
直純は画面を一緒になって覗きこんで、暮羽の横顔を見つめながら言った。
「5分しか待てないから」
「嘘!!!」
眉間に皺を寄せた暮羽が、こちらを振り返る。
彼女の視界に入ったことに、なぜだか物凄くほっとした。
そんなことはおくびにも出さずに、至極真面目な顔で言い返してやる。
「嘘」
すると、予想通り暮羽が眉を吊り上げた。
「もう!仕事の邪魔しないで下さい!相良さんの馬鹿!」
結構な言われようなのに、浮かんでくるのは当然ながら笑顔で。
「冗談だよ。ごめん、ごめん」
全く謝る気などないのだが、とりあえず謝って今度は髪をくしゃりと撫でた。
そういえば、彼女が泣いていたあの時、どうして頭を撫でたりして慰めようとしなかったんだろう。
今なら・・・
「相良ーうちのにちょっかい出すなよー」
北村が椅子の前足を浮かせて、こちらに身を乗り出して来る。
そういえば目ざとい人間は藤木だけではなかったのだと思い出した。
北村の言い回しになぜか、ムッとして受け流すことをやめて言い返す。
「北村さんのじゃないでしょ」
「そりゃそーだ・・・」
「それより、8ミリの綺麗なとこ見せて下さいよ」
「展示会用かー?青てがいいよなぁ」
「そうですね、すっきりしてるのがいいです」
今度こそ暮羽の邪魔をしないように、側を離れる。
再び規則正しいキータッチ音が聞こえてきた。
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