第9話 柔らかく笑う君と

「松見ぃ、お前もコーヒー奢ってやるぞー。ほら、一緒に来い」


北村に手まねきされて、暮羽は急いで伝票入力を終えた。


藤木も上司の次長とティータイム中なので心おきなく席を外せる。


志堂の良い所は15時には必ず休憩を入れるように徹底されていることだ。


午後3時半、休憩にはちょうどよい時間だ。


ドアを開けて待っていてくれた直純にお礼を言って足早に部署を出る。


直純は、海外留学経験があるせいか、女性がいる時は必ずドアを開けてくれる。


それが、イヤミでなく様になるのだ。


本人が気づいていないだけで、結構社内に隠れファンもいる。


こういうさりげないエスコートにときめいてしまう女の子の気持ちが、最近になってようやく分かってきた。



これまで、ほんっとに瞬君しか見えていなかったんだ。


学生時代から、モデルのバイトをしていた瞬は、どこに居ても注目を集めた。


そんな彼と3年間べったり一緒に居た暮羽の異性に対する憧れや理想の根底には、いつだって瞬が居た。


そのおかげで、どんなに素敵な人がほかに居ても、まったく目に入らなかった。


けれど、瞬への恋心に別れを告げた今、こうして改めて世の中を見てみると驚くくらい優しい人も、カッコイイ人もいる事に気づいた。


完全に目隠しが外れたような気分だった。


今なら、相良さんを素敵だっていう女の子の気持ちわかるなぁ・・・・時々ちょっと意地悪なところもあるけど・・・


自販機を前に、小銭を入れた北村が後ろの暮羽を振り替える。


「ほれ、どれでも好きなの選べ」


「ごちそうになりまーす・・・」


いつもの紅茶を選ぼうとして、やっぱりリンゴジュースにする。


「あれ、紅茶じゃなくていいのか?」


直純が不思議そうに暮羽に尋ねた。


「ちょっと気分転換です」


「最近お前ら仲良いよなー・・・俺の知らないところで何かあったんじゃないだろーな」


暮羽に続いて、無糖コーヒーを選んだ直純が、出てきたリンゴジュースを取り出す。


「頂きます。はい、松見」


「あ、ありがとうございます。課長頂きます」


綺麗に無視された北村が、え?と怪訝な顔をする。


「なんだよ、ホントになんかあったのか?」


興味津津といった表情で部下と元部下を交互に見る北村。


直純が意味深な笑みを浮かべた。


「ちょっとね」


「まさか」


同時に暮羽の言ったセリフが重なった。


北村と暮羽が同時に直純の顔を見返す。


「え?」


食事に行くことは、報告するべきことではないし、まして付き合ってもいないのだ。


余計な詮索は避けたくて否定したのに、まさか直純がこんな切り返しをするなんて。


またからかわれてる!?


暮羽が目を白黒させている隣で、本気で驚いた表情を浮かべる北村を見て、直純が吹き出した。


「冗談ですよ」


さらりと告げられた一言に、暮羽と北村が揃って息を吐いた。


本当に心臓に悪い男だ。


「だよなぁ・・・一瞬ドキッとしたよ」


「もうほんっと性格悪いですね、相良さん」


「五月蠅いよ」


直純が暮羽の頭をくしゃくしゃと撫でる。


「・・・・・」


無言のまま非難の視線を直純に送って、暮羽は昼休みにパール入りのヘアコロンを振った髪を慌てて直す。


直純はその視線を受けてもケロリとして、表情ひとつ変えない。


そんなふたりを見て、北村がしみじみ呟く。


「けど、ほんと最近お前ら仲良いよなー」


「そーですか?」


また本音を綺麗に隠したポーカーフェイスで直純が笑う。


「そんなことないです」


言い返した暮羽を見て、北村が豪快に笑った。


「こんな言い返すお前も珍しいよなぁ」


「だって、相良さんが・・」


「ほら、すぐそーやって言い返すだろ?」


すかさず北村が指摘して、暮羽は眉根を寄せて唇を結んだ。


「膨れるな、ブスになるぞ、ブスに」


「すいませんねー。っていうか、それセクハラですからねっ!」


「おーおー一丁前に生意気な」


噛みついた暮羽を軽くいなして北村が先に歩き始める。


いつもの調子であしらわれる暮羽を見て、直純が声を上げて笑った。


「親子みたいな会話だなー」


「親子だったらもっと言い返してますからね!課長!」


「そーかそーか」


とりとめのない話を続けながら8階に戻る為エレベーターを待っていると、休憩スペースから呼び声がかかった。


「北村ー」


工芸部の課長であり、北村の同期でもある渡辺だ。


同じように部下の数人と休憩に来ていたらしい。


「おー・・なんだ。上に上がってくるなんて珍しいな」


「たまにはなー、もう戻るのか?」


「なんだよ、飲み会の相談かぁ?お前暇だろ」


渡辺に返事をしながら、やってきたエレベーターに乗り込む暮羽と直純を振り返る。


「悪いな。先に戻っててくれ」


「わかりました」



★★★★★★



ゆっくりと動き始めたエレベーターの中で直純は目の前の暮羽の後ろ姿を眺めていた。


あの日、この小さな箱の中で泣き崩れた子供みたいな彼女はどこにもいない。


けれど、暮羽の中に、確かに”あの子”は、いる。


同じはずなのに、全然違う。


近づいたら、見せてくれるのかと思ったのに・・・


誰も見た事のない、内側の彼女を。


結局、失恋した相手の詳細までは聞けずにいた。


そこまで突っ込んでいい間柄では、まだない。


恐らく社内の人間だろうと予想は立ててみるものの、本社、第二ビル合わせて200人以上の社員がいる。


誰かを特定するなんて不可能だし、そんな気も無かった。


知った所で、こちらの気分が悪くなるだけだから。


エレベーターが8階に辿り着き、ドアが開く。



★★★★★★



エレベーターのドアが開いて、エレベーターホールに立っている人物を見止めて、暮羽は急に動けなくなった。


全く予期していなかった再会に、準備不足の心臓がばくばくと音を立てて暴れ始める。


・・・うそ・・・


もう大丈夫だと思ったのに、気持ちの方は上手く消化できていなかったらしい。


呆然とする暮羽には気づかずに、目の前のふたりが揃って笑顔を向けて来る。


「暮ちゃん!よかった探してたのよ」


「そこで一緒になってさ」


無邪気に笑いかける友世。


その隣に当り前のように立っている瞬。


ふたりの距離が最初の頃よりずっと近くなっている事に目ざとく気づいてしまう。


「友世さん・・・瞬君」


一瞬でも目をそらしたくなった自分が悔しい。


ドアを開けたまま動かずにいる暮羽に気づいた直純が後ろから腕を掴んでエレベーターを降りる。


覗きこんだ横顔を見た瞬間に、暮羽の挙動不審の理由がすべて分かったようだ。


「いまね、ちょっと余裕あるから、折角なら14階で一緒にお茶したいなと思ったんだけど・・・もう買ってきちゃったのね?」


「あ・・・」


掌にあるリンゴジュースに視線を下ろすが、続く言葉が出てこない。


すみません!入れ違いでしたねー、これから社内便あるのでお茶はまた今度でー。


言うべき言葉はすぐに頭の中に浮かぶのに、どうしても声に出来ない。


無意識に、隣の直純を見上げていた。


視線が、ほんの一瞬だけぶつかる。


次の瞬間、直純が暮羽の腕を掴んで言った。


「暮羽、行くよ」



★★★★★★



自分でも、どうしてなのかわからない。


身動きが取れなくなった彼女の横顔を見た時、バラバラだったパズルのピースが綺麗に組み合わさって答えに行きついた。


大久保瞬が、暮羽の片思いの相手だったのだ。


確かに、入社間もなく大久保が営業部に配属になってから、暫く松見の周囲が騒がしくなった事があった。


商品部に顔を出すたび違う女子グループに囲まれていたことがあって、気になって確認したら、心配ないですと笑顔で交わされた。


確か、同じ高校の同級生って言ってたな・・・・


そういえば、国際部の女子社員の噂話で聞いたことがあった。


大久保瞬の彼女気どりの女の子がどこかの部署にいるらしい、とかなんとか。


すぐにその噂は消えて行って、すっかり記憶から抜け落ちていたけれど。


その女の子というのが暮羽なのだろう。


そうして、その隣にいる総務部でダントツ人気の川上友世。


直純の同期である辻佳織が一から育てた新人で、見た目も仕事もパーフェクト。


適当な男の嫁にはやらん、と鉄壁のディフェンスで守れている彼女は入社以降一度も色恋沙汰の噂が立ったことが無い。


彼女が、暮羽の言った”けっして敵わない相手”だろう。


確かに、国際部にも彼女に熱を上げている男が何人もいる。


どの部署とも関りがある総務の高根の花だ。


モデル並みの抜群のスタイルでそのうえ美人とくれば当然回りが放っておかない。


これまで何人もの男性社員が意を決して告白しては玉砕してきたらしい。


その彼女を見つけたのが・・・大久保瞬ね・・


こうして見ると、本当に絵になるカップルだ。


きっと、川上さんのことも、大久保のことも嫌いになれないんだろうなぁ・・・


戸惑う暮羽の様子を見れば、それ位の事は簡単に分かった。


だから、視線を完全に逸らすこともできずにどう返していいか迷っている。


彼女にとって今、一番会いたくない人間がこのふたりなんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る