第5話 夢でもいいから

成人女性が人目も憚らすに泣きじゃくるというのは、いったいどんな状況だろう。


彼氏や友達との喧嘩?


それであんな風に泣くか?あの松見が・・?


これまで一度も想像したことのなかった暮羽のプライベートが、あの日以降気になって仕方ない。


これまでの恋愛経験を紐解いて見ても、目の前でボロボロと泣かれた事は一度も無かった。


そりゃあ勿論、切ない映画を一緒に見たり、サプライズのプレゼントに驚いて泣かせた事はある。


けれど、そのどれも、あの涙とは種類が異なるのだ。


意外だったから?


あんな風に泣く女の子を初めて見たから?


どれも、当てはまる気がするし、どれも、当てはまらない気がする。


急に自分の中で存在感を増した松見暮羽という年下の女の子の事が、頭から離れない。






暮羽の勤める第二ビルと、直純の勤める本社ビルは歩くと5分の距離にある。


商品開発、企画関係の部門は第二ビルに、営業、経理関係の部門は本社ビルに入っていた。


そのため、直に目で見て商品を選びたい時は必然的に第二ビルを訪れることになる。


忙しい時以外は、極力自分で出向いて商品を確かめる事の多い直純は、あの日から3日ぶりに商品部を訪ねることになった。


普段通りの暮羽が戻っている事を期待しつつ、それでも興味は薄れない。


暮羽の上司である北村には、入社してから3年間上司と部下の関係で面倒を見てもらった。


そのせいか、部署が変わった今も何かあると相談に乗って貰っている。


面倒見の良い北村は、部下にも好かれていて、もちろんそれは、暮羽も例外でない。


何より北村が、新入社員の頃から暮羽を自分の娘のように可愛がっていることを知っている。


もし、今日様子がおかしいようなら、それとなく彼女に話を聞いてみるべきかもしれない。


あの様子だと、なんとなく、誰にも打ち明けれずにいるような気がした。





8階でエレベーターを降りると、丁度階段を上ってきた暮羽と鉢合わせた。


手には特注袋の束を持っている。


驚いた表情は一瞬でかき消されて、すぐに困り顔で上書きされる。


まあ、あの惨状を思えば無理もなかった。


「お疲れ様です」


暮羽の表情の変化には気づかない振りで、いつも通り話しかける。


「お疲れ。工芸行ってたの?」


「はい、急ぎのネックレス作成が入っちゃって納期調整の打ち合わせに・・」


「特注は大抵無理言ってくるから大変だな」


「秋田さんたち優しいから融通利かせてくれるんですけど、申し訳なくって・・」


「まあそれがあっちの仕事だから。低姿勢で居れば問題ないよ。松見、愛想良いし」


「あはは。そう言っていただけると嬉しいです」


顧客の個別の依頼(手持ちのネックレスのデザイン変更等)に柔軟に対応するのも志堂の売りで、母から子へ受け継がれたジュエリーをリメイクすることも珍しくない。


上顧客程、高価なジュエリーを娘や孫に譲りたくなるので、注文は多岐に渡って且つ細かい。


その上、来週のパーティーで使用したいの、なんて無茶ぶりまでされる事も珍しくない。


そういった様々な特別注文を一つ一つ確認して、連携部署との納期調整に走るのも商品部の大切な仕事だ。


社内折衝が出来なければ仕事は出来ない。


その点、暮羽は他部署とのコミュニケーションも円滑で、彼女の無理なら、と受けて貰えることも多かった。


北村の交渉力に笑顔がプラスされれば文句なしの最終兵器だろう。


並んでエレベーターホールを抜けて商品部に入る。


それとなく隣の暮羽の様子を伺うが、さすがに涙の痕はもう見えない。


3日も経てば気持ちに整理が付けられるのか、それとも一端端に追いやったのか。


そのあたりの機微までは直純には読めない。


不躾でない程度に眺めていると、暮羽が急に立ち止まって、直純を見返した。


「相良さん!」


「ん?」


「この間は、本当にすいませんでした。御迷惑おかけしちゃって・・」


頭を下げそうになった暮羽の肩を掴んで押し留めた。


廊下で改まって頭を下げるなんて、二人の間に余程の事があったようにしか見えない。


「わざわざ謝ることじゃないよ、気にしてないし」


「でも・・・ありがとうございました」


こちらを見上げてくる暮羽の目線がこの前より近い。


足元を確かめると、普段は履かないヒールのパンプスが見えた。


そのせいか、いつもよりも、キリっとした印象を受ける。


いつも動きやすいローヒールだったので、こういうヒールの高いパンプスは履かないのかと思っていた。


・・・・心境の変化?・・何かから、自分を守っている感じがする・・なんだろう・・・・


胸に引っかかって来た違和感に眉根を寄せる直純を見上げて、暮羽が微笑む。


「実は、あの後、喉乾いちゃって・・・・紅茶、ほんとにありがたかったんです」


それだけ言って、すぐに真っ直ぐ前を向いた暮羽の横顔に、一瞬だけ過ぎった暗い影を、直純は見逃さなかった。


・・・・そうか、気を抜いたら忍び込んでくる寂しさや、悲しみから、自分を守ってたのか。


武装、という視点で今の彼女を見てみると、すんなりと納得できる。


いつもより張りつめた横顔は、吹っ切れていない証拠だ。


平静を装っても、心の中はまだまだ泣き足りない彼女がいるらしい。


見て見ぬ振りするのがいいんだろう、大人として対応するなら。


けれど、今の暮羽を見る限りそうできそうになかった。


今の直純の眼には、目の前の暮羽はあの日エレベーターの中で初めて出会った年相応の女の子に見えたから。


「あんなもんで喜んでくれるなら、いつでも差し入れするけど」


「本気にしますよ。あ、でも、その前に紅茶のお礼にコーヒーでも奢らせて下さい」


にっこりと微笑み返した暮羽は、直純と対等の社会人の顔を貼り付けている。


さっきの心細げな表情は、見間違いではないかと思うほどいつもどおりの松見暮羽だった。


「・・・・じゃあ、とびきり美味いの入れてもらおうかな」


「え、ドリップでいいんですか?せっかくだから、上の自販機で選んでくださいよ。種類多くないですけど・・・コーヒー嫌いじゃないですよね?」


商品部で、北村と雑談をしている時にコーヒーを淹れてくれたことがある。


自販機の缶コーヒーに飽きた北村が、ドリップタイプのものを纏め買いしてきて、それを用意してくれたのだ。


あれで十分だが、折角の暮羽の厚意を無下にするわけにも行かない。


「飲み物で好き嫌いないから。じゃあどれにするか、考えとくよ」


「はい、せひそうして下さい」


直純は、抱えた特注袋のせいで手がふさがっている暮羽の前に出て、先にドアを開けてやる。


「ありがとうございます」


するりと目の前を通り過ぎた暮羽に次いで直純も商品部に入った。



★★★★★★



「北村さん、昨日電話で言ってた、新作見せて下さいよ」


入り口直ぐの席から手を振る藤木に軽く会釈して、直純が窓際の席で色石と真珠で作られた特注のネックレスを見ていた北村に声をかける。


呼びかけに片手を上げて答えたものの、北村は顔を上げようとはしない。


これはいつものことだ。


商品第一、人は二の次。


支社長や本部長がフロアに来た時も同じような対応をするので、冷や汗を掻いた回数は片手では足りない。


上役達は、北村の選別能力を高く買っているので、目上に対する礼儀に関しては揃って目を瞑っているようだった。


そして、毎回部下である暮羽に、くれぐれも北村のサポートを宜しくと言って帰っていく。


「松見ぃ。昨日のあれ、出してやってくれ」


「金庫に入れた夏の新作のセット見本ですか?」


「そうそう」


分かりましたと返事をして、特注袋を置いて机に置いて、指示された商品を探しに金庫に入る。


退社時には、すべての商品を保管する大型の金庫は、いつも一定の室温に保たれており、一歩足を踏み入れると全身が冷気に包まれる。


ダイヤモンドや色石、あこや真珠、淡水真珠、南洋真珠と、様々な商品が壁一面に設置された棚に収納されているので、かなりの圧迫感だ。


稼働式の台車に乗せて保管していたはずの目的の品を探すが見当たらない。


誰かが場所を移したのかもしれない。


デザイナーや企画、部内のメンバーなど心当たりはいくらでもいる。


ちょっとあれ見せて、と言ってくる社員は社内に何人もいるのだ。


金庫の中を見回していると、先輩の藤木亮子が入ってきた。


「暮ちゃん、見本探してる?」


「あ、そーなんです。藤木さん知ってます?」


「さっき工芸の課長が見せろって言って、選別台乗せたままなのよ」


行方不明でないのは何よりだ。


涼しげなアクアマリンと、まろやかなあこや真珠を組み合わせた16インチのチョーカーは今年の夏の目玉商品だ。


発見された新作を前に、早速アピールポイントについて話込んでいる直純と北村。


二人が議論を始めると長くなるのはいつものことなので、給湯室で用意した緑茶を出したあと、暮羽は自分の仕事に戻る。


斜め向かいの席で藤木が上がってきた商品を確認していた。


「相良くんって、北村さんと仲良いわよねー北村さん43でしょー・・・相良くん29だから親子じゃないし・・・年の離れた兄弟って感じなのかしらね」


「来るたび、話し込んでますもんね」


「北村さんのお気に入り同士、付き合っちゃえばいいのに」


暮羽と直純を指さしていきなり飛び出した爆弾発言に、特注袋を思わず握り締めてしまう。


突拍子が無さ過ぎる。


「なに言ってるんですか!もう、藤木さんってそればっかり」


「だって、最近、暮ちゃんから恋の話聞かないしー」


すぐに誰かと誰かをくっつけたがる、ママさん社員には本気で取り合わない方がいい。


適当に受け流すに限るのだ。


「好きな人なんていませんもん」


ふっ切った。


そう言いきれる。


前を向ける、絶対に。


皺の寄った特注袋を手で慎重に伸ばしながら、暮羽は自分に言い聞かせるように言った。

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