第4話 会いたいは好きの

涙で滲んだ視界の向こうに、見知った顔が歪んで見えた。


すでにエレベーターに誰か乗っていたのだ。


確認もせず早々に瞼を下ろしてしゃがみ込んだことを今更ながらに後悔する。


暮羽のいる商品部にちょくちょく顔を出す、国際部の営業、相良直純その人だった。


なんでここで知ってる人に会うのぉー・・・


しゃがみ込んでしまった以上もう隠しようがない。


しかも、涙は止まる気配を見せない。


「・・相良さ・・・」


何とか絞り出した一言は、彼の名前だけだった。


放っておいてください、とか、気にしないでください。とか、上手く言い訳する余裕も無かった。


真上からずっしりと重石でも乗せられたように身体が重たくて立ち上がる事が出来ない。


そんな暮羽を見下ろして、直純が黒縁メガネの奥で目を細めて静かに言った。


「上、あがろっか?」


上・・?


意味が分からず瞬きを繰り返す間も、やっぱり涙はポロポロと零れて来る。


急ぎの商品の引き取りや、展示会向けの製作依頼等、商品部とのやり取りが多い、営業部、国際部の中でもかなりのやり手として知られている彼は、数年前に海外勤務から戻って以降、週に一度は必ず商品部に顔を出す。


暮羽の上司である北村と旧知の仲である彼は、暮羽とっても馴染みのある営業で、だからこそこの状態で会いたくは無かった。


投げられたのは疑問形の言葉だったが、暮羽の返事を待たずに降りる予定だった8階のボタンをもう一度押して取り消す。


代わりに、彼は14階のボタンを押した。


14階には茶道部の部室である和室や、部署ミーティングなんかにも使われる、パーテーションで仕切られた大型の休憩スペースがある。


各階に休憩スペースが設けられているので、ここまで上がってくる社員は少ない。


はいともいいえとも言うことが出来ないまま、どうにか手のひらで涙を拭う。


しゃがみ込んでいるので、エレベーターの揺れがいつもよりずっと大きく感じた。


泣きじゃくってしまいそうになるのを、必死に我慢したので、酸欠で眩暈もする。


もうこのまま消えてしまいたいくらい自分が情けなかった。



★★★★★★



エレベーターが14階に到着する。


直純は、ドアに凭れたまま立てないでいた暮羽の腕を引いて立ち上がらせた。


「松見ー着いたよ」


一声かけたが、当然彼女は俯いたままだ。


もう返事を出来る状態でないことは分かっていたのでとりあえず、手を引いてエレベーターから降りる。


廊下は静まり返っていて、話し声も聞こえない。


どうやら今のところ誰もいないようだ。


その事にホッとして、暮羽の様子を確かめつついつもよりスローペースで廊下を進んだ。


5つある休憩スペースの、一番小さい部屋に暮羽を座らせて、ちょっと待ってな、と伝えてからエレベーターの前にある自販機に取って返す。


何にしようか少し迷って、商品部を覗くたびいつも彼女の机に置いてある、ストレートの紅茶を選んだ。


まさかエレベーターに乗り込んできた顔見知りがそのまましゃがみ込んで泣き出すなんて。


そうそうお目にかかれない結構なハプニングだ。


・・・それにしても以外だったな・・


何があっても泣かないイメージだったのに。


直純は、暮羽の待つ休憩スペースへと戻りながら、普段の彼女の様子を脳内トレースする。


上司の北村や先輩社員にも可愛がられていて、社内でも上手くいってる感じだったのに。


全国展開している志堂の真珠製品の管理と出荷を一手に担う商品部は、かなり忙しいし仕事量も多い。


けれど、暮羽の口から仕事に対する愚痴や不満を聞いたことがなかった。


仕事は丁寧で正確だし、緊急出荷にも柔軟に対応してくれる頼もしさもある。


上司の北村も、かなり暮羽を買っているようで、大切にしていた。


たしかウチに入って5年目だろ?


もう仕事で行き詰まるような時期じゃない。


だとしたら、プライベートで何かあったとしか思えない。


それにしたって、こんな泣くほど?


北村と軽口を叩き合う明るい暮羽と、いつも笑顔で直純を出迎えてくれる温和な笑顔の彼女しか見たことが無かったので、その印象のギャップが凄まじい。


まあ、でも・・25歳だしな・・色々あるか・・


アイスティーの缶を持って戻ると、さっきと同じ恰好で暮羽が俯いていた。


隣に腰かけて、手にしていたアイスティーを差し出す。


「とりあえず、落ち着くまでここにいたらいいよ。北村さんには俺から上手く言っとくから」


おずおずと受け取った缶を握り締めて、暮羽がまだ涙で滲んだ目で直純を捕えた。


初めて目が合った。


「すいません・・・」


それだけ言って、くすんと鼻を啜った後、また溢れて来た涙に目を伏せる。


握りしめたハンカチで目元を押さえる暮羽の肩を宥めるように優しく叩いた。


あれこれ追求するつもりはなかった。


「気にしないでいいよ」


そう告げて、暮羽を残して立ち上がる。


この時間なら、誰もここには来ないだろう。


人目を気にせず、泣いていられるだろうし。


直純はゆっくりとエレベーターホールに向かいながら一度だけ、暮羽がいるスペースを振り返った。


時間が経てば落ち着くだろうが、あのままひとりで大丈夫だろうか?


けれど、彼女の親しい友達を知っているわけでもない。


直純が知るのは、商品部の中にだけいる松見暮羽だ。


それ以外の彼女の事は、当然ながら何一つ知らない。


子供じゃないんだし、平気か・・・


いつも8階のあの部屋に入るたびに迎えてくれた彼女がいないと思うと、妙に寂しい気がする。



そんな考えを打ち消すように直純は視線を窓の外に移した。


彼女の上司に、暮羽の不在をなんて伝えようか考えながら。




★★★★★★



ようやく落ち着いて、貰った紅茶を持って部署に戻るとすでに直純の姿は無かった。


持ち帰りたい商品があったのなら、データ移動の為のタグとメモが机の上に置かれている筈だがそれもない。


今日は、ただ北村と話に来ただけなのかもしれない。


もしくは、別フロアに用事があってビルに来たのかもしれない。


万一そうなら、暮羽のせいで商品部に寄り道させたことになる。


忙しい彼の時間を奪ってしまった可能性にようやく思い至って、申し訳なさが募った。


就業時間を過ぎているので、隣のフロアはがらんとしている。


先輩ママ社員はすでに帰ったあとだった。


デスクで週報に目を通していた咥え煙草の北村のそばまで歩いて行く。


女性社員が退社後は、窓を開けて空気清浄機を回して、喫煙可となる選別台の奥のスペースで部下の戻りを待っていた彼の煙草からは煙が出ていない。


係長の仲村は打ち合わせに出ているようだ。


「課長・・・」


暮羽の声に、一瞬週報から視線を上げた北村は、ひょいと眉を上げるとすぐにまた週報へ視線を戻した。


いつも遠慮なしに暮羽を揶揄う彼も、泣きはらした顔の部下に掛ける言葉はすぐには思い浮かばないようだ。


「総務に捕まってたらしーなぁ。災難だったな」


「・・・すいません・・」


直純がそういう事にしておいてくれたらしい。


「あのお局にイヤミでも言われたか?」


友世が所属する総務部のお局様、辻佳織は課長の右腕として頼りにされており、部長からも一目置かれる存在だが、理不尽な事でイヤミを言うタイプではない。


間違っている事は相手が誰であれ理路整然と間違いを指摘して修正を依頼するので、苦手意識を持たれることが多いようだと、彼女の同期である直純から聞いたことがあった。


ごめんなさいと内心謝りながら、それに乗っかることにする。


「・・・ガツンと言い返してきました」


「はっはっは!そうかそうかー・・うん。松見、飲みに行くかあ?」


春先の花珠出荷が終わった後や、上海製品の大量手配が終わった後等、定期的に部下を労ってくれる北村の軽い誘い文句。


物凄く気を遣われている事がひしひしと伝わってくる。


「まだ、大丈夫です。そのうち聞いて下さい」


「有料だぞー?」


からりと笑った北村が、早く帰れよ手を振る。


ぺこりと頭を下げて、荷物を纏めると同時に、北村が火を付けた煙草の匂いが漂ってきた。



★★★★★★



無人のトイレを陣取って、丁寧に化粧を直してどうにか見れる顔に戻した後、わざとガラガラの各停電車に乗り込んだ。


浮腫んだ顔で満員の快速に乗る勇気はない。


泣きすぎて、まだ耳の奥がジンジンする。


・・・久しぶりに大泣きしちゃったわ・・しかも、相良さんに鉢合わせするなんて・・


とんでもない所に遭遇した彼の対応は、あの時の暮羽がもっとも必要としていたサポート。


出会ったのが彼で本当に良かった。


紅茶を差し出してくれた、穏やかな笑顔を思い出す。


メガネの奥の目が、優しかったことも。


それと同時に押し寄せる、重たい後悔と反省。


いくらなんでも家に帰るまで堪えるべきだった。


いい歳した大人が会社で号泣とか・・まともな女のすることではない。


次会ったらお詫びとお礼をしなくてはいけない。




開ける事が出来ないままカバンに入れた、飲みそびれた紅茶の缶を取り出してみる。


チョイスに迷うたび選ぶ定番の紅茶だ。


「あたしが飲んでること知ってたんだ・・」


こういうところが大人だなと思う。


放っておかずに、けれど、何も訊かずに余計なことは言わずに、暮羽をひとりにしてくれた。


きっと、瞬なら泣くなよと言ってすぐに慰めてくれるだろう。


暮羽が泣きやむまで側にいれくれるだろう。


けれど、この気持ちには振り向いてはくれない。




・・・あたしが好きになったのは、そういう人。いつだって、自分にまっすぐな、人。

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