18
「まさか彼女が生きていたなんてね。大誤算だ。死んでたと思ってたんだけどね」
「殺そうとしたのか」
「やったのは僕じゃない。けどそんなことを言っても何の意味もないだろう」
苦しそうに腹を抑えてこちらを見据えてくる。
「おもくそ蹴ったんだからあの一発で寝ててくれたら助かったんだけどな。で、諦めるつもりはないのか」
「当然だよ。ここまで来たんだ。ハルさんは半死半生。レイちゃんは無力な子ども。君さえ取り除けば続けるのに支障はない」
「レーヤダーナを傷つけられないくせにか」
ぴくりと反応する。
「そうだね。僕はあの子を透かして妹を見ていた。まったく情けない。どんなものも犠牲にするって決めてたくせにいざとなるとこの体たらくだ。でも、次はそうならない。あの目に見られさえしなければ僕はやれる」
「いや無理だな」
断言した。
「何故かな」
「お前はここで、俺にぶちのめされるからだ」
ディオスは鼻で笑った。そうだろうよ。ありえないけど逆の立場だったとしたら俺もそうする。出来ないから止めろと言われて、じゃあ止めますなんてありえない。そんな風には生きたかない。
「そうだよね。君はそうするよね。僕も黙ってやられるつもりはないけどさ。それは君も分かってるんだろう」
当然だ。
あいつの望みと俺の在り方は相容れない。話し合いなんかで解決出来ないし、折り合いなんぞ付けられない。妥協の入り込む余地もない。つまるところ―――。
俺は拳をぱしんと打ち合わせた。
それが合図となった。
彼我の距離。常人であれば一足で踏み込めるものではない。だが俺たちは星の落とし子。普通の条理の外にある。
一息でお互いの間合いへと到達する。
やつの武器は直剣による皇国の貴族階級に伝わっていた伝統騎士剣術。対して俺は無手。落とし子としての力が同程度であれば次はお互いの武器で力比べをする。
当たり前だが俺が不利だ。せめて腕を守る手甲でもあれば話は違ってくるがそんなもんはない。そんな状態で相手取るのはなかなかにしんどい。
何度だって言おう。殺し合いだの決闘だのは好きじゃない。不意打ち上等。卑怯な手があるなら使え。勝ってなんぼ。そいつが俺のやり方だ。だから今の状況そのものが不本意だ。
速い。
鋭い。
遠い。
突いて払って薙いで斬ってと様々な剣撃が襲ってきやがる。俺はそれを一太刀も受けるわけにはいかないのだ。
「よく避ける! どこで習ったんだその奇妙な動き!」
「色んなもんを少しずつ齧り倒して身についたもんだ!」
見逃すわけにはいかない。相手の呼吸、瞬き、歩法。身体を常に動かして的を絞らせない。
「やりにくい! 僕の動きを読んで先に手を出してきてるようじゃないか!」
「攻めながら守るってやつだ!」
首を傾けて真っすぐに突いてくる剣を避ける。ほとんど継ぎ目なく振り下ろされる剣。動きに合わせて前に出ることが出来ない。だがディオスも俺の接近を許すまいと決して大振りはしない。
結局、俺は近づくことができず、ディオスは当てることが出来ない。だから状況は膠着する。
体力勝負で負けるとは思わないがいつ白の魔女が暴れだすか分からない以上、すぐさま終わらせるのが望ましい。
いったん離れようとするとディオスがいったん息をふっと吐く。
そして俺もふっと息を腹に込めて前進した。迫るディオスの姿。身体に向かって近づいてくる剣を感じる。それが達するよりも先に俺の拳がディオスの腹に刺さる。
けれど浅く薄い。透った感覚がさほどない。後ろに飛んで打撃を逃がされたか。
「人の身体を内側からかき回さないでくれよ。腹で受けたはずなのに背中に抜けてきた。本当に、奇妙な技だ」
「こっちの方じゃ馴染みがないのは確かだな」
「それに僕が動くタイミングに合わせて先に動いてくる。なんて言うんだったかなこういうの」
「機先を制す?」
「いざやられてみると腹立たしいものだね。出鼻を挫かれてうまく動けやしない」
腹をまさぐって気味が悪そうに俺を睨んでくる。
「このままじゃ分が悪いか」
「降参するか」
「ここで降参出来るような性格をしていたらずいぶん楽になってたんだろうけれど」
諦めるつもりはないと、剣の切っ先をまっすぐ俺の眉間に向けてピタリと合わせた。
ああいう構えをされるのは苦手だ。攻めにも守りにも特化はしていない。それはつまり、攻めも守りもそれなりに対応出来るってことで読みにくい、合わせにくいの二重苦でもある。
「カナタ。星の落とし子とはなんだと思う」
どういう意図でそんなことを聞いてくるのか。
落とし子とはなにかって聞かれると返答に困るのは確かだ。普通の人間よりも色々な意味で違ってて、普通の人間よりも色々な意味で力強く頑丈で。
ディオスが聞いているのはそんな誰もが答えられるようなものじゃないだろう。
「俺が学に富んでるように見えるか。どうでもいいぜんなもん」
ディオスは微笑んだ。俺の学のなさを嘲ったとかそういう感じではないが。
「煌素は世界中に遍在していて僕らの体にも動植物にも鉱物にだって存在している。この世界を形作る要なんだ」
「それがなんだ」
「世界を形作る要素を扱う力が落とし子にはある。じゃあ逆に考えてみることは出来ないかな。落とし子には世界を形作る力がある。僕らの心は世界を作る」
「星の律ってやつか」
「知ってたんだ」
目だけを動かして周囲を確認する。レイとハル。そして動かないままの白の魔女。この狂った時の世界こそが白の魔女の世界ってわけか。
「だけど残念ながら凡百の落とし子に一つの世界を作るなんて大それた真似は出来ない。出来るのはせいぜい願いを小さな形にする程度くらいのもの」
ディオスが左手を俺の方に差し伸べる。握手したいってわけでもないだろうに何がしたい。虚仮威しって意味なら有効か。現には俺は思考を誘導されてる。あれがなんであるのか。なんの意味があるのかって考え込んだ。ただそれから先に続くものがない。攻撃、威嚇、後退。なんにもしてこない。
地面を擦りながら少しずつ近づいていく。切っ先がこっちに向いているのが気になって仕方がない。飛び込んだら頭ぐさーってされる映像がちらついている。
剣の長さあいつの腕の長さ。腕の振りの速さに間合い。体の動かし方。そういったのは大体把握出来た。なのに嫌なイメージが浮かんでくる。
ディオスは至って普通の落とし子のはずだ。あのアスベルみたいな出鱈目馬鹿野郎じゃない。落ち着いて挑めば勝ち目がなくなるなんてない。
相手が待ち構えている時はどうするか。
まず逃げる。今回は採用出来ないので残念ながら見送りだ。
そして次、当たり前だが遠間から一方的に攻撃して制圧出来るならそれに越したことはない。極めて癪に障るがそんな力は俺にはない。あったらもっと楽になっただろう。
だから投石は最高なのだ。
だが、力なき俺に許されている選択肢は結局のところ、めっちゃ近づいてぶん殴るしかないのだ。恨むぜ女神様。
そうして地面を蹴って前に進んだ時だった。
何かが俺の左手を強引に捩じり上げた。
崩す態勢。間髪容れずに飛んでくる刃先の鋼鉄色。
身体を無理やり前に倒す。
駆け抜けていくディオス。遅れてきた熱い痛み。首筋から血が垂れる。あと少しでも深ければぱっくりいってた。
頭の中は大混乱して何が起こったのかを知りたがる。
だけど身体は殴りっこに向けて勝手に動き始めている。振り向けばディオスが俺をぶっ刺しに走り出していたからだ。
交差した瞬間に反撃。
単純な軌道。真正面からの突き。いなす。そらす。不可能ではない。要はタイミングの問題。
それは紙一重ではあったものの辛くも成功。がら空きの身体に向かって―――。
「っ⁉」
また左手を掴まれた。何に。何もない。けれど確かにある感覚。人の、誰かの手のようなそれが俺を引き寄せる。
今この瞬間に何かを確認するなんてのは致命的な隙に違いなく。
がら空きの身体に向かって来る大振りの一撃が胸に吸い込まれた。
「―――ッ⁉」
身体は撃ちだされた砲弾みたいに吹き飛ぶ。何かにぶつかって止まる。ハルが乗せられていた台座だと気付くのに三秒ぐらいかかった。
それだけの時間があればディオスは俺にとどめを刺せていただろうがあいつは来なかった。
ぼやけて回る視界。押しつぶされた呼吸。その向こうで用心深そうに俺を観察している。
あれか。俺が斬れなかったから何か仕込んでると訝ってんのか。
俺も不思議だよ。それ相応に鍛えているが思いっきり刃物で斬りかかられたんだ。なんで斬られてないわけ。
喉の奥から絞りだされる血反吐を吐き出しながら確かめると切れた服の隙間から懐中時計が落ちて転がった。
衝撃で留め具の部分は壊れているが本体は傷一つない。
「流石は封印の要だった時計。頑丈だね。魔女の恩恵でも受けてるのかな」
「お前これ知ってんのか」
「君が何も知らないことに驚いたよ。それも白の魔女を封印する為の時計だ。知らなかったのか」
生まれ故郷から持ってこられた俺を俺たらしめる自戒証明。
白の魔女に関わりがある物だとは思ってた。けれど何のために存在していたかなんて知らなかった。
そいつをひょいと拾い上げる小さな手。レーヤダーナだった。
いつも通り物言わず。いつも通りの無表情。むしろそんな様に安堵を覚えた。全身が血みどろで安心とはほど遠いのに。
「お前、怪我してないか」
ゆっくり頷く。
「その血はなんだ」
ハルを指差した。
「あいつに助けてもらったのか」
ゆっくり頷く。
あいつの血なのか。それにしたって血ぃ浴びすぎじゃね。どんなになったらこんな有様になるのか。つか、あいつよく動けるな。自分で治せるにしても。
「お前は大丈夫なんだな」
頷いた。うん、よし。
差し出されている小さな手に乗った時計に手を重ねる。冷たくて温い。けれどこれが俺が引いていくべき手だ。
俺が今、ここに生きてある原因。
「終わったら返せ。それまでお前が持ってろ」
わちゃわちゃとレイの頭をかき混ぜる。いつもとは違ってごわごわしていた。帰ったら洗ってやんないとな。
ふらんふらんと頭を揺らすが手は離れなかった。なんだっての。まさかこいつ。
「お前、俺がやられるとでも思ってんのか」
すいっと目線を腹に移された。破けた服の下から少し切られて血の流れる肌が見えた。
そういうこともあるかもしれないがこういうのは結果なんだよ。立って動けているうちは問題ないんだよ。
決めた。ぜってーもうあれで殺されるような隙は晒さねぇし。このがきんちょに問題視されるとかありえないし。俺にだってプライドはそんなにないが負けん気はあるのだ。
「二人は本当に仲がいいね」
俺らのやり取りをじっと眺めていたディオスが冷たく言った。
「心底、腹立たしくなる」
「ハル!」
「はい? ちょ、ええ⁉」
いつかと同じようにぽんとレイを投げ飛ばした。放物線を描いで飛んでいく様が視界の端から消えていった。多分、受け止めてくれただろう。
猛然とディオスが攻め込んでくる。
隙だらけのように見える。けどそれは見えるだけだ。大振りになっていなしやすくなった剣を力尽くで払いのけがら空きになった脇腹に向かって一歩踏み込むとまたなにかに掴まれ引き寄せられる感触がある。
当然の結果として俺の動きは乱されて、代わりに思いっきり腹を左手で殴られた。お株奪われたみたいで腹立つぜこの野郎!
「君はいつも僕が失ったものを見せつけてくる!」
「はあ!?」
「僕が持っているはずだったもの! 僕が繋いでいるはずだった手だ!」
こいつは何を言い出しているのか。
「お前の事情なんか知るかよ」
「知るはずもないだろうさ。唐突に奪われ失くしてしまった者の心が君に分かるはずがない!」
「当たり前のこと喚いてんじゃねーよ。奪われて何を感じたかなんてそいつだけのもんだ。他人が分かるわけねーだろうが!」
何を想って何を無くそうとも、その日その時その場所で感じた心が誰かに分かるはずがない。
他人が完全に共感出来るもんじゃないし理解出来るわけもない。失ったものがそいつにとって最も大切だったのであれば尚更。
俺なら誰にも分かって欲しくない。そいつは俺だけが感じた俺だけの喪失感だ。当価値なんてありえない。
再び切りかかってくるのを迎え撃つ。
「君は自分が当たり前のように甘受している今を当然のように思っていないか!」
剣の間合いに入らないように一定の距離を取って立ち回る。
「そんなものはいつだって脆く崩れ去る。この世の誰もがいつだって理不尽にさらされて大切なものを失う可能性を抱えている」
「それで?」
「君が大切ななにかを、誰かを失ったらどうする!」
例えばそいつは両親、恋人、友達。
「天災でも人災でもなんでもいい」
例えば失われてしまった故郷とか。
「唯一を奪われて黙っていられるのか! 戻らないからと諦められるのか! 失ったのなら取り戻したいと願わないのか! そんな有り様で本当に大切だって言えるのか!?」
後先なんて考えられないと執拗に俺を斬り殺しにかかってきている。
殺意を浴びせられて冷や汗が止まらない。紙一重で剣先を避けられ続けているのは狙ってのことじゃない。紙一重でしか避けられない。
お前宮廷剣術習ってたんじゃないのかよ。でたらめもいいとこだぞそのお行儀悪い剣筋。
雑だけど速いし重いし当たればたいてい必殺みたいなの、一番嫌なんだよ。
「薄ら寒いことほざくな。お前がなに思おうがお前の自由だ。なら俺が何を思うのかも俺の自由だ」
「なら君の大切を奪って僕は僕の大切を取り戻してやる」
「八つ当たりかよ」
「ああそうだ。なんで僕が奪われたままで居続けなきゃいけない。おかしいだろ。僕が奪われたのなら誰だって奪われないと不公平じゃないか!」
不公平。
そこにあるのはなんで俺だけがっていう憤りで怒りだ。自分が欠けたのに他人は五体満足だなんてずるい。おかしい。お前も奪われるべきだなんて、そうした感性は誰にだってあり得るものだ。俺にだってそう。
人間は決して聖人君子なんかじゃないからそう思うしそう考える。何を失ったかの程度によるかもだけど。
下劣な品性。
だけどその下劣さの根底にあるものも見るべきだ。失ったものが大切だったからこそ下劣にもがいてあがいて取り返そうとするのだ。
大切に思える何か。人が人としてある為には無条件でそれが必要なのだと強く思う。
だけど思っているからこそ。
「だから誰かの大切を奪って積み上げるって?」
「そうだよ。千でも万でも奪って重ねて積み上げてこの手で掴むまで止まるもんか」
奪って取り戻す。
その行いに俺は非を唱えない。取り戻した側は喜んで、取り戻された方も、もしかしたら無邪気に喜んでくれるかもな。
だからこそ、その行いの見ようとしない欠陥をお前は認識しなくてはならない。
それを知ってなお、無事に取り戻せましたああ嬉しい、取り戻されましたああ嬉しいなんて言えるのならどうぞ続ければいい。
構え直す。
半身の前傾姿勢になって右手を前に。両の拳は僅かに開手。右手はあいつの左手と合わさるように。左手は上へ向けて。
「ディオス。俺はお前のやり方を否定しない。奪われたら取り戻す。やって当然。その為なら誰が不幸になろうと構いやしない。分かりやすい」
「君は口も態度も悪いけど最終的には道徳に従うものだと思ってたよ」
「俺は女神様に顔向け出来るような生き方してねえよ」
ちっとはましに見えたとしたら多分それは、ガキんちょが俺を見てるからだよ。
「否定はしない。だけど絶対にやりもしない。出来るとしても取り戻しなんてしない」
出来たとしたら救われるかもしれないと思えても。
出来たとしたらどんなにか素晴らしいかと思えたとしても。
「その理由がお前に分かるか」
「失いはしたけれど時間が癒すなんてよくある話に当てはまっただけだろう。よくある話さ。僕はそんなのごめんだ」
「違う。本当に大切だと思っているからこそやらねえんだよ」
ディオスは理解出来ないとばかりに大袈裟に首を振る。そして同じ構えのまま俺を見据えている。
前は時計で防ぐなんて幸運があったが次はない。だけどもう当たるつもりはない。レイにもそう見栄きった。
ディオスが地面を蹴って突進。
俺は待つ。待つ。待つ。待ち続ける。
全神経はあいつの一挙手一投足に集中している。
迫り来る刺突の刃先を避ける。この間合いでは俺の拳は届かない。だから踏み込む。
ディオスは人形じゃないからそこからも攻撃は続く。
寝かせた刃を払い斬りつけてくるのを避けようとする。ここまですべて一緒の展開。同じように唐突に右手を掴まれた。体勢が崩れる。
向かってくる剣の腹を押し上げて軌道をそらした。
頭の真上を擦過する剣。
これであいつが自由になるのは左手のみ。しかも剣を振り抜いた後で動かせる範囲は限られている。
そんな体勢から出来るのは前と同じようにぶん殴ることぐらいで、そんなんがくるって分かっていれば問題なんざないんだよ。
強引にもう一歩踏み込む。腹に衝撃。ディオスの左手が入った。腰の入ってないパンチなんざ効くか。脳筋の腹筋なめんなボケ!
目の前に驚くディオスの顔。笑える。だから笑った。
この距離で出来るようなことなんてたかが知れてる。ほとんど密着状態。だけど俺にはこれがある。
背をそらす。背筋がばっきばきに躍動する。
腹に力をいれる。腹筋がめっためたに固められる。
首を据わらせる。僧帽筋が始末に負えないほど酔っぱらった親父の目よりも据わる。
つまりだ。
「あがっ!」
盛大に悲鳴をあげて崩れ落ちそうなとこを両手で掴み止めてもう一回叩き込む!
「がはっ!」
今度こそ地面とよろしくするディオスだった。
しばらく動きもなく呻きもなく、だけど気絶もしてないようでまんじりとした時間が過ぎていく。
「………なんて、石頭」
頭突きである。
喉の奥からなんとか絞り出したみたいなディオスの声がめちゃめちゃ弱々しくて笑う。
「俺の頭より固いのは母ちゃんの財布の紐ぐらいなんでな」
まあこちらも相応に痛いのだがそんなもん言う必要は認めない。
ディオスは地面にのびていて俺はまだ立ったまま。さて、ただの勝負ならこの時点で勝敗がついているけれど。
「てめぇまだ諦めるつもりねぇんだろ」
「当たり前……」
もう剣も握れないしあの不思議な掴まれる感触もない。だけど双眸はまだ死んでいない。目玉が諦めてなるものかと執念に燃え盛っていた。
諦められるわけがない。心のどこかでくすぶり続ける火がある限り。
そういう風に決めているのなら。最後まで貫き通す。そういう奴だ。
「じゃあ立ちな」
「言われるまでもない」
もはや武器はなく力もない。まだ頭ん中の揺れも取り除けていないだろう。ふらりふらりと木の枝みたいな動きで立ち上がる。
拳を固めて殴りかかってくる。そこに落とし子としての超人性はない。諦めきれない願いを掴もうと足掻くただの人間だった。
「良識を諦めた!」
受けた。痛くはない。
「善人であることも諦めた!」
受けた。痛くはないが、だけど重い。
「胸を張れる生き方も!」
受けた。重く響く、拳に乗せたやつが辿ってきた時間。
「だけどあの日の誓いだけは諦めない。その為だけに僕はある!」
受け止めた。感情を丸出しにして世の中の何もかもに挑もうとしているその姿を。
「だからこの世でたった一つの大切な人を取り戻すためにも、ここで止まるわけにはいかない! もう少しなんだ! あと少しなんだ!」
言ってやりたいことがある。お前にお前の考えがあるように。お前の考えとは別の考えがあるんだって。両手でしっかりと受け止めた。
掌がじりじりと焦げ付くみたい熱を持つ。
「お前は言ったな。たった一つを取り戻すために多くのものを奪うって。教えてくれよ。『本当に大切なこの世に一つしかないもの』なら『何をどれだけ』奪ったら取り戻せるんだ」
「なに?」
「例えば、奪ったものがこの世にたった一つしかない『どっかの誰か』の大切な命でも、それは『お前』にとって大切なたった一人の『誰か』の命と釣り合う価値のあるものなのか言ってみな」
「なにを」
受け止めた手に知らず、力が篭もっていく。
「分かんねぇかな。お前にとってカスみてぇな奴らの命をどれだけ積み上げたら『大切な誰か』に届くのかって聞いてんだよ」
「それは」
「百か千か。それとも一万か。笑かすぜ。お前にとっての『大切な誰か』の命の値段なんざその程度にすぎねぇのか。戻ってきた『誰か』に言ってやりな、お前の命はたった一万のどっかの誰かと引き換えにしましたってよ」
「うるさい黙れぇ!」
型もコンビネーションもなにもない乱打。
何回か気合入ったいいもんもらったし、鼻血は出てるし骨はぎしぎしだし余裕なんてぶっこけない。俺も限界ぎりぎりだ。
「たった一万。たった十万。たった百万。お前の大切な誰かの価値なんざそんなもんか。たったそれっぽっちで戻ってくるんだからな。よかったな幾らでも取り戻せて」
せせら笑う俺を黙らせようと手当たり次第に飛んでくる拳の雨に耐えながら。
「失っていない奴が!」
歯をむき出しに、憎悪を隠しもせずに怒鳴ってくる。
なら俺だって包み隠さず感情を丸ごとぶつけてやらにゃなるまいよ。
「唯一ってのは一つっきりっきゃねぇんだよ! 失っちまったらそこまでなんだよ! 戻ってこねぇんだよ!」
「戻ってくるさ! 一つっきりを取り戻すための白の魔女だ!」
「その一つっきりを、お前はお前にとって何の価値もねぇカスどもの命と引き換えにしようとしてんだよ! それでいいのか! 許せるのか! 許されるのか!」
「そ……れは……」
「俺だったら許さんね! 俺をその程度の価値のものと引き換えにして取り戻そうとして大切だなんて嘯く奴なんざ許さねぇ!」
「うるさい黙れ! 僕はあの子を取り戻して、あの時繋げられなかった手を取るんだ!」
例えば両親。例えば恋人。例えば友人。例えば故郷。全てそれぞれ違っていて、全てが一つっきりのものだ。
大切に思えば思うほど、その価値は他の何とも引き換えに出来ないんじゃないのかよ。していい物じゃないはずだ。
戻ってきた時にそれは本当に元通りになってんのか。唯一だから失うことに怯え、奪われたことに憤る。
だったら戻ってきてしまった時、それはもう唯一なんかじゃない。なにせ戻ってくる程度の物でしかないのだから。
失っても取り戻せるのだから。
失われたものが尊いと思えているのなら、取り戻すために尊さを切り刻んでばら撒くような真似をしていいのか。
俺は嫌だ。例えそれで何もかもが元通りになるかもしれないなんて夢想を抱けたとしても。
「歯ぁ食いしばって耐えてけよ! みじめに生きていけよ! 後悔しながら胸張れよ!」
悪いな父さん母さん。あんたらの息子はとんだ親不孝者だ。
あなたたちを取り戻せるかもしれないのにしようとすら考えないんだからよ。
それでも失った人たちに誇れる俺でありたいなんて戯けた考えしてるんだぜ。笑ってくれよ。
今も昔も、そして未来でも大切に思い続ける。
「それだけが! 俺らが大切な彼らに出来る唯一のことだろうがよ!」
例え死ぬんだとしても大切だと思った瞬間は失われない。そう信じている。他人がどうこう言おうが俺がそう信じている限りは失われない。
思いっきり振りかぶり。思いっきり殴りつける。
「妹に罵られてこいこの馬ッ鹿野郎‼」
手応え、あり。
吹き飛ぶディオスが地面を転がっていく。そのまま寝てろ。
あーちっくしょー。なんでこんな思いせにゃならんのだ。
ほんっと、つっかれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます