17
眼下に広がる光景について、どうするべきかと自分に問を投げかけている。
返答はしょうもなさすぎて答えた人間の正気を疑うのに不足はない。
このまま飛び降りて突撃。
やつらが出入りする入口の一つを選んで突撃。
大音声を上げて注目を浴びつつ突撃。
そんな子どもが思い描くような夢想が出来るなら苦労はしない。
数は……百は越えているだろう。それぐらいの数の人間が一つの場所に集まっていた。
巨大な岩場が天頂から繰り抜かれて生まれた円形舞台。そんな場所。
岩肌には機械のような何かがてんでんばらばらに埋め込まれていて奇妙な文様を描いていた。
雲間から除く月の光が不気味な連中の姿を蟻のように見せていた。
しかもあいつら全員、白い装束を身にまとっている。気味悪い。この遺跡があいつらに食い荒らされた巣のようにも思えてきた。
だとするのなら、異分子である俺は餌に他ならない。勿論、ただの餌で終わる気はない。腹くだすどころじゃない毒餌になると決めている。便所に籠らせてやると決めている。しかも紙のない個室にな。
懐中時計を取り出して今の時間を確認する。
零時前。
そろそろ日付が変わる。
時間はなさそうだ。味方もいない。役に立つような道具も知識もない。ないない尽くしで嫌になる。
レイとハルはどこかと探し始めて飛び出しそうになったのを必死に自制する。
舞台の真ん中。祭壇のような場所へ運ばれてくるのはハルだ。あいつらと同じような白い服に着替えさせられている。
周囲の文様が収束する終点の台座に寝かされた。まったく反応がないしピクリとも動きやしねぇ。
そしてその台座には石が無造作に置かれていた。
さらに俺の目を引いたのは乱暴に手を引かれてついていけず、躓いては転げそうなるレイの姿だった。
赤。黒ずんだ赤。夜の暗い世界の中でもはっきりと分かる。血の赤に全身を浸食されていた。
沸騰しかけた頭がかえって冷え込んだ。
熱のこもった息を外に吐き出す。落ち着くなんて無理な話だが飛び出したくなる衝動は後々に取っておけ。そこでいくらでも爆発させればいいのだ。
あいつらは無事だと信じる。近づかないことには話にならない。そして近づくためには今のままじゃ無理。おあつらえ向きにあいつら全身を白い装束で覆っている。
どっかに落ちてないかと探しても落ちているはずがないので手っ取り早くひっぺがすことに決めた。
下まで降りていくついでに群衆から離れている適当なやつを暗がりに引っ張りこむわけだ。
ここに来るまでに何度か見かけてやり過ごしていた見回りの誰かでいいだろう。都合のいいことに二人組を見つけた。
壁に背を預け、息を殺して気配を殺して音も殺す。聴覚を澄まし視覚を澄まし触角を澄ます。微細な空気の揺れも掴んで離さないように全身の感覚を鋭利に研いで糸として張り巡らす。
二人が通り過ぎた後、彼らの姿を確認し、彼我の距離を測り、自分の能力を確認し、背後まで忍び寄る。
一人目の後頭部にそろりと手を伸ばして触れるか触れないかの位置から弾くとくらりと傾いた。二人目については何があったか声を上げる前に背中に取り付いて言葉を出させないようにして絞めあげる。そのまま数秒経過すると意識が落ちた。
神経が痛めつけられる。男の服をはぎ取ってそのまま着るという拷問のような作業が待っているとなると尚更。
それを無心で行う。外見からは完全に俺だと分からなくなっただろう。急いで広場まで行く。着心地も臭いも最悪だが文句を言ってる暇もない。
他に使えそうなものはあるかとまさぐりたくもなくないのにまさぐって、使えそうなものを持ってないのに落胆した。
何か持ってろよこんちくしょうと潰してやりたくなったが慈悲の心で止めておいた。
群衆を掻き分けて紛れ込んでレイとハルの二人に近づいていく。
気味が悪すぎる。何がって誰も何も喋らない。顔だってほとんど覆われているから表情なんて分からない。なのに伝わってくるものがある。
それは期待、願い、妄執。そんなもの。
粘ついてぎらついて涎を垂らさんばかりの熱望。
じりじりと皮膚の上を蟻がはい回るような感触に唾を吐き出したくなった。
「同志諸君」
老人の声だ。
舞台上に俺とそう背丈の変わらない人影が進み出た。あれが恐らく老人の声の持ち主だろう。ハルと初めて出会った時にいた老人だ。
その隣にもう一人、石を台座から取り上げて捧げ持つ顔の見えない誰か。目だけがちらりと覗いている。男か女かも分からない。
「そなたたちは忘れていないか。
過去に失われ、もはや抱くことの叶わない存在を。
どれほど手を伸ばしても触れることすら叶わぬ存在を。
そして失ったと確信したその時を。
悲しみ、悩み、苦しみ、憤る。
なぜ失ったのかとどれだけ己を責め苛んだろうか。そしてなぜ己が失うのだと女神の不公平を怨んだろうか。
私には分かる。私には伝わる。あなたがたがそうであるように私も女神を憎む者だからだ。
だからこそ私は断言しよう。
そなたたちの誰一人、何一つとして忘却していないことを。
忘れられない。いや、忘れてなるものかと強く願った時を忘れられずはずもない。
我々が生きているそこを基点としてある以上、忘れるとはつまり、我々自身の死と同義である。
再び、ここに集ってくれたそなたたちに問おう。
この境遇を、理不尽を許せるのか」
無言と無言と無言。
だけど空気の塊は火に炙られるようにどろどろと溶け出していく。溶け出し広がっていくモノはこの場に集う者たちの心だった。
悲哀から辛苦へ。辛苦は憤嫉に。憤嫉より赫怒へと。
百人のばらばらだった思いが喰いあい繋がりあってぶくぶくと肥え太っていく。ばらばらの群れだったはずのそれはすぐにたった一つの願いへと収斂した。
許さないと。
「その通り。許せるはずがなく受け入れられるはずもない。
ならどうする。どうしたい。思い出してもらいたい。
あの日、あの時、あの場所で、あの瞬間に舞い戻りこの手に取り戻すと誓っただろう。
我々の願いはそれしかない。他のことなど祈れるはずもない。否、それしかない。それしか己に許さない。
あの理不尽を覆すためにはさらなる理不尽をなさねばならない。
時を超えて時を壊し、取り戻すのだ。
その為には如何なる悪行も如何なる凶行も、如何なる不義も如何なる不善をも恐れない凍てついた炎のような心が必要となる。
そなたらにその覚悟はあるか」
いよいよ不味くなってきた。
これは最終通告のようなもののはず。悪行凶行に不義不善。加えて非道ときた。
それってようするに、ごく控えめに言っても女神さまにも世間さまにも顔向け出来ないことをするって意味だろ。
アスベルは言っていた。生贄と依り代と。
お伽噺の時代から悪い魔女には供儀が必要で、声を上げる老人の傍らには生贄と依代が揃っている。不穏すぎる組み合わせだった。
これで安穏としていられる強心臓の持ち主でもない俺は顔が曇っている。土砂降り寸前だ。舌打ちが漏れた。誰も彼も自分のことに夢中で気づかれないのが幸いだった。
「ここにはその奇跡へ到達する手段があり法がある。
この少女らはようやく見つかった我らの白の魔女を呼び出すための鍵であり、現世へと留めおく相応の器であり魔女の欲する血の持ち主なのだ。
これを以って白ノ魔女をこちらに呼び寄せる道を作り狂乱を鎮めた後に我々は願いに至るだろう」
老人の隣でずっと黙っていた奴が抑揚のない陰々滅々とした声で、唱え始めた。
ハルが白ノ魔女を呼び出した時と同じ言葉の羅列―――。
「この憎しみを絶やさぬように 凍てつく炎に私はなりたい」
波が押し寄せるようにして、同じ言葉が延々と続いていく。
微かな光を灯す黒煌石。
冷たい筈のなのに冷たく感じられない汗。大音量なのに内に向けて沈み込んでいく声の唱和。重く響く心臓の鼓動が、あの時と同じなのだと教えてくれる。
あれはハルが言葉に出して形になったんじゃないのか。
時計の針が動く音が向こう側から聞こえてくる。懐中時計が明滅を始めたように熱を持ったみたいだ。
あんなもんを呼び出されるなんて堪ったもんじゃない。二度と会いたくないんだ。
誰も彼もが譫言をぶつぶつと繰り返している。誰も他人を気にしたりしない。だから俺がどう動いたって見咎められたりもしない。
だからといってなにが出来る。きっと頭の悪いことしか出来やしない。
考える。
口上を述べた老人がこいつらの頭なのは間違いないはず。あいつを殴り倒してレイとハルを抱えて逃げるのにどれだけ時間が必要だ。
逃げるとしたらどのルートを辿るのが安全だ。抱えたままで崖を駆け上がるのが最短だが出来るのか。駆け上がれたとして追手にはどう対処する。撃ち落されでもしたら目も当てられない。それとも地の利もない遺跡の中に逃げ込んでみるか。そんな馬鹿な。
どんな選択をしても後悔って重りが足を引っ張ってきそうだった。それでも、このまま何もせず流れるがままにしているよりかは納得出来るだろう。
そして、行動に移そうとした時、視線が合った。石を持って来たやつだ。冷静な目で俺を見ている。
誰も彼もが同じ言葉を飽きもせずに繰り返している異常な空気の中であいつだけが冷めた目をしていた。
出鼻を挫かれた。あいつがあそこに陣取ったままじゃ思うように動けない。白布に覆われた口元が蠢いた。
『動くな』
そう言われたような気がした。
次の瞬間、ばたりと誰かが倒れた。そっちに目を向けると倒れているのは一人ではなかった。そうしている間にも一人、また一人と糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。
大きな雨粒が地面に降っていく。それを人間がやると実に不快な音の合唱になるのだと実感させられてしまった。
「なにが起こっている」
それまでの陶然から愕然へと口調を激変させた老人が言った。あいつも目の前で起こっていることが分かっていないらしい。
「なにって。あなたも生贄と仰っていたじゃないですか。願いを叶えるために必要だからこうなっている。たしか、鋼の心でしたか」
「贄はそこの気味の悪い子どものことではなかったのか!?」
「小さな子ども一人の犠牲で願いを叶えるなんて、虫のいい話だとは思わなかったんですか。足りるわけがないでしょう。足りない足りない全く足りない」
心底馬鹿にするように、言い切った。
「大切なものを取り戻したいのは大いに共感するよ。賛同もしよう。だけどそれが大切なものであればあるほど犠牲の重みは増していく。だったら最低限、ここにいる全員程度は犠牲にしないと話にならないんじゃないかな。あなたの大切なものってそんなに気軽に取り戻せてしまえるほどに軽いんですか」
そう言って、無造作に剣を抜き放ち、無造作に男の胸へと突き刺した。ずるりと崩れ落ちてしばらく痙攣していたがすぐにそれはなくなった。
この声。聞き覚えがある。
その剣、見覚えがある。
だけど俺はそんな声の持ち主に覚えがない。そんなはずがない。あいつであるはずがない。
もしかしたらと思っていたし、まさかとも思っていた。でも違うと思っていた。思いたかった。
マッツ先輩は言っていた。俺が白の祈りの連中が街に潜り込んだと警告していたのにもかかわらず突然に現れたと言った。
そしてレイについて。どうしてアスベルがエリスの中の、さらに特殊な事情を持った子どもだって知っていたのか。
誰かが話したからだ。そして、そんな事情を知っている誰かは限られる。
「お前、何してんだ」
「魔女を呼び出す為の煌力を集めているんだ。宝石の煌力だけじゃ足りないかもしれないから今回は念を入れてより多くの人から煌力を取り出しているんだよ」
「そんな鼻くそ以下などうでもいいこと聞いてんじゃねーよ。お前が、なんで、そっち側にいるかを聞きてーんだよ、ディオス……!」
ずるりとフードを降ろしてさらした顔は変わらずへらへらとした笑みを張り付けている。いつもの笑顔なのにまるで見たことのないホラーマスクを張り付けたような笑顔。
目も違う。柔らかな優しさなど忘れ去ったみたいに始末に負えない熱のこもった冷たい眼光が、ここにいた他の奴らと全く同じだった。
「僕も白の魔女とはちょっと関わりがあってね。あの言葉の意味も呼び出す為の方法も知ってたんだよ」
「そうじゃねーよ。お前は、こいつらの、仲間なのかってのを聞いてんだ!」
あっさりとディオスは返す。
「仲間かどうかは分からないな。知り合って結構長いけど彼らと一緒になって悪事を働いたことはないから。少しだけ僕たちや君たちの話をしたぐらいか」
「だから、なんでお前はそっちにいんだよ。お前がいるべきなのはこっちだろうが!」
あいつは肩を竦めて苦笑しやがった。普段とまるで同じ仕草が頭にくる。
「どうしても叶えたい願いがあるから。僕自身の力でどうかなるのなら自分自身で叶えたいと思う。でも、それじゃ無理なんだ。だからこっち側にいる」
「お前も白の魔女に願いを叶えてもらいたい口か」
事も無げに一回頷いた。
「信じてくれないかもしれないけれど僕は最初からこうすると決めていたわけじゃないんだ。白の魔女がいたとしても願いを聞いてくれる保障もないし、そもそも会えるはずがないと知っていたから。君がハルさんと石をお持ち帰りしたから可笑しなことになってしまったけど」
「そいつは信じてやるよ」
俺がハルと出会って石と一緒に連れ帰るなんてなければ、白の魔女なんて物が広がりようもなかったし、こんなことになりようもない。
「ありがとう」
「そのあとはどうなんだ」
再び、苦笑。
「君は言った。人間にとって命は一個しかないと。人生は一度きりで。死んだらそこまでだと。失えば取り戻せない。やり直しも誤魔化しも効かない。だからこそ、大切な物は必死に守らないといけないと」
言った。確かに言った。
「じゃあ、大切な物を失ってしまった奴は、守れなかった奴はどうなる、どうしたらいい。取り戻せるのなら取り戻したいと思うのは自然の流れだろう。僕はそっち側の人間だからね」
「妹か」
「そう。サラ。僕の小さな妹。君の大切な子と同じように白の魔女を呼び出す材料にされて死んでしまったけれど」
レイに良く似た雰囲気の。似ていたのは雰囲気だけでもはなく在り方もか。
何も言えなかった。言えるわけがない。俺があの時、言い放った言葉は取り戻したいと願う奴にとっては感情を逆撫でする言葉でしかない。俺はそれを知って言い放った。
「あの子を失った時、僕はいつか必ず取り返して見せると誓った。だけど、どれだけ調べても白の魔女は応えてくれない。彼女は大昔に巨大な封印を施されて現世からは干渉出来ない。彼女に触れるには特別な血の持ち主と、いずれかの封印の鍵。そして彼女の魂と意志を降ろすに足りる器が必要だったからだ。そこまでは分かった。けれどどうしても手段だけは揃えられなかった」
「そこにレイが現れ、俺が鍵の持ち主である魔女の末裔のハルを連れ帰った」
「……天恵だと思ったよ。この機会を逃すなと言われているみたいだった。同時に呪った。僕は今までの自分にそれなりに満足していたからね。煌士って立場は都合が良かった。過ちを犯して何もかもを失った僕が生きるのには誰かの役に立つしかない。そうしていれば妹も僕を許してくれるんじゃないかって、そんなはずがないのに縋れていたから」
「だったらそのままでいても良かったじゃないか」
「取り戻せるかもしれないんだよ」
言葉も身体も震えだした。へらへらとした仮面が剥がれ落ちると泣いているような、怒っているような、笑っているような崩れた表情で。
剥がれ落ちた仮面の下にあるのは、どんなことでも涼し気な顔で流して笑う気障な男ではなく、大切な妹を失って嘆くどこにでもいる優しかった兄の面だった。
「誓ったんだよ失ったあの日に。いつか必ず取り戻してやるって。それを無理だからってどうようもないからって諦めるなんて。ふざけるなよ僕は認めないぞ。誓いを嘘にする僕なんて絶対に認めない」
静かに淡々と、滔々と。
だから分かった。
それなりの付き合いだ。為人も知ってるしこうと決めたら曲げない芯も持ってるって知ってる。
そんなこいつがここまで言っているんだ。もう止まらないし誰も止められないだろう。失われた妹ならあるいは出来たかもしれない。
「嘘にするぐらいなら何もかも壊れてしまえばいい」
レイの首に剣を突きつける。
興奮か昂揚か、その手は細かくと震え少しばかり食い込んで、ぷつりと小さな赤い珠が浮かび上がってつぅっと流れていった。
あのディオスが、よりにもよってレイを殺そうとしている。考えもしなかった絵面が目の前にある。眩暈がしそう。心臓が乱れて沸き立った。
「動かないでくれ。魔女が来るのをじっと待っていてくれ。僕もこの子を傷つけたくない」
「よく言うぜ。犠牲になんだろそいつは」
「いいや。ハルさんが黄金瞳を得た今、必ずしもこの子は必要じゃない」
けれど、流される血は多ければ多いほどいいはずだと言い切った。
回る時計の音。歪んでいく景色の向こうから響く呪詛の声。倒れ伏した人々から漏れ出す光の靄が文様を伝って最後には石の中へと吸い込まれていく。
溢れ出る苦悶の声は怨嗟に塗れていた。なぜお前だけが願いを叶えようとしているのかと暗く彩られていた。石はその色を吸い込んでますます暗く輝いている。
「ここは煌力の集積場でね。石によって開かれる彼女の世界への扉。そこに白の魔女が知る血の道を作れば魔女の魂は器という終点を経てこの世に現れる」
そうして僕は誓いを果たすのだと言い放った。
「それで、おまえは妹を取り戻してお前は何をしたい」
「……なに? 何をって? 僕はただ、僕はただ手を……」
自分自身、その先なんて考えていなかったのかディオスは口の端を引くつかせて笑った。
俺たちのやり取りなんぞ関係なく、増していく石の輝き。石を中から裏返すようにしてじくじくと世界が白と黒に浸食されていく。
祈りが、誓いが、願いが、向こう側から爪を立てながら近づいてくる。ここに探し求める何かがあると迷いなくまっすぐに。
「僕は一体何をどうしたいんだろうね?」
「知るか馬鹿野郎」
俺たちのいる場所と魔女のいる場所の境界。そいつがどんどん曖昧になって薄灰色の世界に塗り替えられていく。
あの時と同じ、けれど決定的な違いが聞こえてくる。
時計だ。時計の針が進む音。どこからか響いてくる。俺の持つ懐中時計だけじゃない。
最初は一つ。次は二つ。さらに三つ。両手両足の指の数では足りなくなるぐらいに大量の音。
ばらばらだったそいつが足並みをそろえた時、布地を裏返すように見える世界が変わった。
時計の群れ。
時計だ。視界を埋め尽くす時計の群れ。俺が持っているような懐中時計もあれば置時計もあれば水時計や砂時計、果ては火時計に日時計。超巨大な棺桶時計。最も大きな時計は振り子を規則正しく揺り動かし、その巨大さに見合った重々しい音を世界に鳴り響かせている。空を埋める模様もまた時計。何重にも浮かび上がり塗り重ねられる時計の刻印。
どこもかしこも全てが時計と時計と時計と。
時計の数など数える気にもならない。そもそも異常なまでの圧迫感に吐き気がする。視覚だけでも怖いのに音の波が神経に鈍い引っかき傷をつけてくる。
正常に時を刻む物。逆しまに時を詠む物。出鱈目な速さで目まぐるしく針を回す物。完全に止まった死んでしまった物。
こんな中にいたら苦労もせずに狂ってしまえる。そう思わせるに十分な異様さだった。
時間。それに対する尋常でない執着に吐き気と寒気と怖気が止まらない。血が逆流して全身の臓器も筋肉も感覚も時計の針と音が意識を潰しに掛かってくる。
そうならなかったのは意識の最上位を占める存在があったからだ。
幽霊めいた白い姿がはっきりと現れる。あの時と同じ、不出来な白い人形めいたその姿。あの時と同じ、無数の鎖に繋がれたまま。
あの時と違うのは微動だにしないその姿だ。それにも関わらず狂的な念は渦巻いているのに漂う静けさがむしろ不気味だった。
その輪郭ははっきりと女性のものであるように見えた。
「あれが白の魔女」
震える声でディオスが言った。
白の魔女に意識が持っていかれた瞬間にディオスは次の行動を起こしていた。
あのままの魔女では話にならない。だから器と血が必要で、それはレイとハルだ。
自分の無能さにほぞを噛む。レイの喉元に剣を突きつけているのだ。一瞬さえあればあいつはレイを斬りつけられる。
だがあいつは躊躇した。その腕はピクリとも動かずレイを見下ろしている。
そしてレイもあいつを見上げていた。何をされるのか分かっているような目。そうして静かに瞼を閉じた。
まるで好きにしていいよと言っているようだった。
だからなのか。ディオスは怯えた。そのわずかな時間が俺に付け入る隙を与えた。
「僕は誓いを果たすんだ!」
一呼吸でディオスとの間合いを詰めようと身体を駆動させる。一歩では足りない。二歩。手を伸ばしてもぎりぎり触れられない。
間に合わないと悟る。どうあってもディオスの刃が届く方が速い。だからこっちは道具を使う。文明の利器とはかけ離れた原始的な方法。
指に乗せた石礫を打ち出した。
狙いなんて付けられるほど上手くはないが今回は狙い通りにあいつの手に当たった。動きも止まった。だが剣を手放してはくれなかった。
ディオスの顔に苦味が走る。その苦味を即座に取り除こうとして再び刃はレイの喉元へと迫る。
横から青白い腕が伸びてそれを止めた。今まで動きもしなかったハルだった。
台座から青ざめた顔でディオスの腕を掴んでいる。
驚愕は一瞬で、ディオスはすぐさまハルの腕を振りほどく。だけどそんだけ時間があれば止めるのは十分なんだよ。
手をつかみ捻り上げて剣を無力化し、そのまま鳩尾めがけて思いっきり膝を入れてやる。
「お手柄だぞハル。レイをめちゃくちゃ撫でまわしていい権利をやる」
「それはとても魅力的ですね………」
「動けるか?」
「無理なんて言ってる場合じゃなさそうなんで」
何があったのかなんて知りようもないがこいつもろくな目に合わないな。視線は白ノ魔女に向かっている。その左目は、暗く冷たい黄金色をしていた。
それが黄金瞳ってやつなのか。ろくな目になってねぇとは怒られそうだから言わなかった。
今はまだ何も起こってないが白の魔女がいつあの時みたいな狂乱ぶりを示してくるか知れたもんじゃないからな。
「あれはどうにかなるのか」
「分かりません。でも、何をするにしてもやっぱり石が必要じゃないかと思います」
頼りにならん上に今はどうにも出来ないというとても心強い返事だった。
はん、上等だっつの。
「カナタさんこそ大丈夫なんですか」
親友なんでしょうと言われた。んないいもんじゃないし。
ダチだから顔面をぶん殴れないなんて見当違いな心配してんなら的外れだ。
気に入らないヤツが気に入らないことしてたらぶん殴ってやろうと思うし、気に入ったヤツが気に入らないことしてても結局はぶん殴る。
そしてじっぃと俺に注がれるお子ちゃまの視線がある。
「ちっと待ってろ。あの馬鹿目ぇ開けたまま夢見てんのさ。覚めたらお前にも殴らせてやるよ。あの馬鹿なら喜ぶね。なにせちっちゃい子大好きだから」
だからあの馬鹿はレイを傷つけるのを躊躇した。見られたぐらいで躓くぐらいなら最初からやるなってんだ。
こいつは何を思っているのか。自分が接した数少ない人間。こいつの素顔を見ても恐れもせずに話しかけ優しくしなにくれとなく世話もしてくれ奴が凶器を振り降ろしてくる。
ま、その結果、こいつがどう思うのかはこいつの問題で俺の問題じゃない。糧にしろ。そんで成長しろ。せいぜい人間的感情を養え。俺はその為にいる。その為にある。そう決めている。そう決めたのだからそうするまで。
失ったものは取り戻せない。いや違うか。仮に取り戻せるのだとしても取り戻してはいけない。どんだけ苦くてもそう信じている。
あいつは言っていた。大切なものであればあるほど犠牲の重みは増していくと。
馬鹿すぎる。間違えている。履き違えんなよ。それを分からせてやらなくてはならない。
同じ穴の狢だった人間として。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます