13
黒い石から激しい雪のように光が零れている。
景色が薄墨色に塗り替えられている。
石の中の世界に閉じ込められたみたいだった。
日が射しているはずなのに光は届かない。雲で遮られているわけではない。雲は止まっている。止まっているのは雲ばかりではない。自然の音がない。空の下にいて耳に針を突き刺すほどの静寂は恐ろしいほどに孤立を思わせる。
光すらも止まっているように見える。光が止まるってそもそもどんなだと思うけどもそう思えてしまうのだから仕方がない。
覚えがある。忘れられるはずもない。何もかもが止まったような光景。俺の持つ懐中時計が光るのも前と同じ。
違うのは今この時に動いているのが俺だけじゃないってことだ。
「あれが白の魔女ってやつか」
剣呑な雰囲気に歓迎と獰猛を混在させた笑みを浮かべてある一点を凝視するあの男。
その男のすぐ側で同じ場所を見つめるレイ。
倒れ込んだ姿で顔を歪めて苦しそうにしているハル。
全員が同じ方向、同じ場所から目が離せなくなっていた。
何かがいる。暴力的な雰囲気はない。それならあの男の方がよほど暴力に身を染めている。
「白い影」
凝然とそれを見つめたままのハルが言う。
それは確かに白だった。ひどく不出来な塑像のようにも見えるそれ。白い人形。
灰色の世界においてなにより白く異彩を放つ影。
ひどく苦しそうに体を捻って捩って地に伏せている。
それがゆっくりと重たげに腕を伸ばす。手首に当たる部分に見ているだけで膝をついてしまいそうになる重苦しい糸だか縄だかのようなものが地面まで垂れ下がっている。
鎖。
そう思えてしまった。そしてそれは恐らく正しい。腕だけでなく足にも背にも首にも全身に絡み付くそれは罪人を縛り付けるための鎖。
伸ばした腕の先にいるのはレイで、その手に持っているのはあの石だ。あの影は石に向かって手を伸ばしているのか。
何のためにだ。手にいれるためにか。
レイ。あの馬鹿。どこまで鈍けりゃ気が済むのか。危険を察知する力もなけりゃ逃げるなんて考えもないようでじぃっとあの影を見つめている。
暴力的な雰囲気がないからといって危険ではないなんてそんな楽観が出来るはずもない。あの影がこの止まった世界の核だろう。ならばここはあれの支配下。何をしようが思うがまま。暴力なんて必要ない。
「確かめるべきだろうなぁ。あれが本当に目当てのもんなのかぐらいはよ。それで壊れたらそれまでって話なだけで、耐えられねぇならそれまでって話で。それでいいよな。な、そうだろ」
楽しそうな口調とは裏腹に酷く剣呑な気配だった。止まっていた空気が男を中心にして暴力の熱が渦巻いていく。
白い影へとゆっくりと近づき、やがてそれは俺たちに相対した時と変わらない、いやそれ以上の速さで白い影へと迫っていった。
奇妙な光景だった。
それは見ている側としては滑稽で、奇妙で、不可解で、何が起こっているのか理解してしまえば戦慄するしかない空恐ろしいものだ。
笑ったままの男。獣が獲物を狩るような低い前傾姿勢。離れているからなんとか目で追えるほどの速さ。
それが、白い影に近づくにつれて遅くなっていく。男自身はまるで気付いていないのか表情も恰好も何一つ変わらない。
白い影が立ち上がって一歩踏み出す。身体中に無数の拘束を受けたまま実に重たげに、苦しげに。そして男が完全に止まった。
止まったのだ。どこかで見覚えがあるようなそれ。心臓の警鐘がより速く、より重く、危機と、許容量を遥かに超える嫌悪を伝えてくる。
影の足元が触れた地面。そこだけ時間が溶けたのか歪んだのか、生まれ変わったように草花が頭をもたげ、足が離れると同時に急速に老いて萎れて枯れていく。
生まれて死んだ。
嗚呼、なんて胸糞悪いその条理。懐中時計を握り潰しそうになった。
あの男が解放されたのは影が男を置き去って十分に離れた後だった。
あいつにすれば訳が分からなかったろう。迫っていたはずの影は自分の背中へ。そして自分は勢いそのまま何にもない場所へ向かって一直線なのだから。
振り降ろそうとした腕の先に獲物はいない。たたらを踏んで振り返り、何が起こったのかを見極めようと冷めきった、けれど脆弱な人間なら狂死するような目つきで影を睨んでいる。
「てめぇいま何したよ」
影は男の憤りなんか気付きもせずにゆっくりと進んでいく。その姿はいつ終わるとも知れない徒刑者を思わせた。
影が動けば動くほどに巻き散らかされる意思。
それは祈りだ。その祈りがどう生まれたのかなんて分からない。分からないなりに分からせられてしまう。
想いがあまりに大きすぎるから。他のことなど祈れるはずもない。否、それしかしない。それしか己に許さない。
―――そうだ許さない。己の祈りはその為だけに。身体も力も心も命も全て全て、全てをその為だけに。誓い、祈り、願い、必ず叶える。星の輝き、決して堕とさせぬ。時は我が星律の僕と知れ。
ゆえに祈る―――時よ廻れ。
繰り返し繰り返し繰り返し、幾度となく、何千、何万、何億と、幾昼夜も通り越し無限と思えるほどに繰り返し、ただただ時よ廻れ廻れ廻れ―――。
―――その通り。他の祈りなんて許されない。俺が俺に許さない。俺の全てはその為だけに。そう決めたはず。俺が望む俺の果て。俺の誓い、俺の祈り、俺の願い。その形とは。俺の律とは。生きて、生きて、生きてその時まで―――。頭、頭、頭いかれそう―――。
「しっかりしてください……!」
「……あ?」
正気を取り戻す。
心配そうに背中に手を当ててる奴は……ハル。石の持ち主。魔女の末裔。恩人。消えかけていた思考が洪水のように戻ってきた。
「あなたは誰ですか」
「カナタ・ランシア」
息苦しい酩酊感。俺が俺じゃないような足元の浮揚感。こんな半死半生の様にあって呑気か。しっかりしろ。酔っぱらってる場合か馬鹿野郎と活を入れようとしても頭も体も追いつかない。
「白の魔女の毒気に当てられたんです。今の弱っているカナタさんであればそうなってもおかしくないです」
「よく分からんが助かった」
とにかく今は目の前の状況をなんとかすること。レイを無事なまま出来れば俺もハルも生きたまま逃げること。それが優先すべき事情ってもんだ。
「ありゃいったいなんだ。お前なにした」
「白の魔女。その一部、ではないかと」
なんだそりゃ。
「母から教わった秘文です。首飾りにも刻まれている文字。白の魔女を呼び出す鍵だと」
そんな危ない言葉を知っていたのか。と、同時にそんな危ない言葉なんぞ誰にも伝えられんだろう。
こんな風になるなんてとハルは厳しい顔をしている。
確かに、こんな風かもしれないが、おかげで俺たちは息をしてるし口だって利ける。
「呼び出せたんなら送り返すことは出来ねぇのか」
「……」
視線は合わず、厳しい顔のまま、あの男がいよいよもって勢い増して、影に突撃を繰り返すさまを見つめているハル。
言葉にしなくても返答が分かった。そんなもんはないんだ。
「心を落ち着かせる秘文であれば。効果があるとも思えませんが」
そいつは頼もしい言葉だ。
ただ、影がいま消えたところで男が残っていては意味がない。そこをどうするかが問題なのだ。
最高の展開はあの男と影が共倒れになってくれることだけどそんな妄想が実現する未来を都合よく思い描けはしなかった。
なによりあいつら化物に自分の命運を託すなんてぞっとしない。
ぐっと膝に力を入れて立ち上がる。ハルがいつの間にか治してくれたのか動けるようになっている。その本人は俺の様子を見て目を丸くしていたが。
「大丈夫なんですか?」
「お前が治してくれたんだろ」
「一応は、そうですけど」
嚙み合ってない気がする。無残なまでに開いていた傷口だのバケツプリンが出来るんじゃないかってぐらい流れた血だの跡は残っていてもそれそのものは残っていない。だから動くことに問題はない。
そんなちぐはぐな会話を後目に、突如として大笑が響き渡る。
「てめぇまだ影なんだろ⁉ 完全じゃねえんだろ⁉ なのになんだこりゃ俺がクソな間抜けじゃねえかよええおい最高だな‼ 本物になったお前を食えれば俺は真実、ただ一つの星ってのになれるかもしれねぇなあおい‼」
訳が分からないのは最初からだが輪をかけて訳が分からない。自分勝手に自分の好きなことだけぺらぺらとまくしたてやがって。
ただありがたいことにあいつの興味は完全に影に向けられていて、俺たちのことなんて忘れ去っているみたいだった。
しかし影には奴の言葉なんか届かない。それも当然。あれの中にあるのは祈りの成就。それのみのだから。
……そんな存在が石を欲しがるか?
「俺の言葉なんざ耳に入らねえってわけか。イカすぜてめぇ。やっぱヒトってなぁそうじゃねえとつまんねぇ。形振り構わず己の望みを求め続ける。そういう奴にこそ価値がある。けどよ、今のてめぇは夢でも見てる影にすぎねぇ半端者だ。願いも望みも生きてこそのもんだ。だからよぉ、数百年ぶりの現世で目覚めてからまた願い続けなぁ‼」
今日で何度思っただろう。やばいって。あの男に出会ってから絶えず思い知らされてきた危険信号。あんまりにも鳴らしすぎたんでほとんど麻痺していたそれがここに来て再び息を吹き替えした。
相変わらず分からないことだらけだが、分からないなりに相変わらず分かることもある。
「あの子は……!」
ハルが駆け出した。
アホなのかあいつは。まずいってんなら近づく方がまずいだろう。一直線にレイの元へと駆け寄るハルだ。お前ならこの状況を変えられる可能性があるってのに自殺願望でもあんのか。
なにより、そいつは俺の役目だ勝手に取っていくんじゃない。まずい真似をするのは俺の役割だ。俺の方が頑丈だろうが。なにより俺は頑丈なんだよこの野郎!
視界に映るレイの小さな姿。それに向かうハルの姿。うっそりとした魔女の影、そして赤黒い光を纏う男。
俺たちがレイの元に辿り着いて少しでも離れようとすると、白い影が初めて自分から動いた。勘違いであってほしい。勘違いでなければこちらを見たのだ。
狂的なまでの思念に乗って叩きつけられる意思はこう言っていた。
見ツケタ。
見ツケタ、見ツケタ、見ツケタ、見ツケタ見ツケタ見ツケタ見ツケタ――見ツケタ。
常人でしかない俺には所詮、化生の真意は測れない。
恐怖はない。恐怖を抱くにはそれは切実すぎた。安堵はない。安堵を抱くにはそれは圧倒的過ぎた。どうしようもない現実が迫ってくる時、逃げることも立ち向かうことも忘我する瞬間はある。それが今だった。
レイを抱えて逃げようとする恰好のまま立ち尽くす俺に向かって白い影が不意に近づいた。速いとかそういうんじゃなくて、一瞬で移動してきたというべきか。ふわりと宙に浮いて、重さなどないように。
硬直する。
鎖が金属的な音を立てて翻っていた。
俺は馬鹿面晒して突っ立ったままで何が起きたのかを見続けるしかなかった。
影が伸ばす手。それはレイに向かっていた。レイと白い影の間に両手を広げて立ち塞がるハルの姿。
白い手はハルの左目を抉るように突き立った。
狭まった喉の奥から振り絞られた魂消えるような悲鳴。
そんな景色の向こうから男の盛大な狂笑と迫ってくる赤黒い光の波。
それが俺たちも、白い影も飲み込んで、この薄灰色の世界を無残に喰い荒らしていく。
軋み、耐えきれぬと罅割れ光が差し込んでくる。針の一刺しが強固な硝子を粉砕するように、この世界はあっけなく崩壊していった。
夜空に浮かぶ赤星が死ぬ瞬間の光が放たれれば世界を壊してこうなるかもなんて馬鹿みたいに思いながら意識も消えてった。
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