12

 襲い掛かってくる男。変哲もないただの大ぶり。その右手は中に半円を描いて振り下ろされる。


 それが目の前にぶら下がった餌なのか。それとも大マジこいてしているのか。取れる選択肢は色々ある。透かして反撃。そのまま関節。懐に飛び込んで一発。


 俺はこいつに対して脅威を感じた。そんな相手がこんな汎用な攻撃をしてくるか。してくるとしてその意図はなにか。頭の中でぐるぐると回る混乱。それによる逡巡。攻勢に出られず距離を取った。


 そいつが俺の命を救った。


 無造作に振り下ろされた腕。振り下ろされる途中で手が開くと地面に叩きつけられた。アイスをナイフで裂くように易々と


 大地を広く深く抉ったそれは獣の爪痕。


 殺人。その殺害方法とは。殴殺に格殺に撲殺。犬型の魔獣のような爪による斬殺。仕事。街から離れた郊外。タバコと血の臭いを発する男。


 こいつ……!


「やっぱりお前が殺人鬼か!」


「んな恥ずかしい名前で呼んでくれんなよ」


 そうしてもう一度、無造作に振り下ろされる手。それに従うよう生まれる赤黒い光の爪。海なんぞここ数年お目にかかったことなんぞないが、地面が波打つようにして切り裂かれていく。


 爪と爪の間に身を躍らせて接近する。言うのは易し、行うは難しってな。豚が生きたままスライスされる直前の気分を味わえた。


 確かにご大層な切れ味で、当たれば真っ二つになるだろうよ。ただしそんな大道芸じゃ俺は金払ってやんねぇよ!


 素手で何かを切るってなお前だけの専門ってわけじゃない。


「大振りすぎんだこの野郎!」


 ただの人間でも鍛えりゃ恐ろしいほど綺麗な切り口で煌鉄の糸すら切る。だったら、落とし子なんて小狡い体質した俺が人間程度の首を落とせないと立つ瀬がない。


 抜け出してがら空きの首を文字通り切り落とす。俺の手は奴の首に綺麗に吸い込まれ、そうして何事もなく止まった。


 見た目はそこらにいる連中と変わりない。感触が、山を殴ったみたいな絶望感。


「案外、やるじゃねぇかよ小僧」


 男は両手を合わせ、ゆったりと大きく振りかぶっている。隙だらけ。顔面、喉、水月に間を置かずの三連。だけど、動きはまったく変わらない。


「避けないとミンチになるぞ」


 男の低い声が、死神の囁きに聞こえた。


 思いっきり地面を蹴って飛んだ直後に爆発でも起きたのかと思うほどの轟音と豪風。無様にごろごろと地面を転がって塵まみれになった。


 吹き飛んだ土砂が豪雨になって降り注ぐ。


 冗談じゃない。あんなもんまともに受けたら上半身と下半身が一丸になって新種誕生、肉団子になるっつー話。


「精肉屋の店長でもやった方がいいんじゃないか」


「人肉専門だな」


 おいおい嘘だろ。あそこにほとんど間を置かずにぶち込まれてぶっ倒れん奴なんぞしらん。それが何の効果もない。それに比べて相手の攻撃は一発でも天に召されて女神様に会えるという格安ツアーだ。


 効果がないってのは気が挫かれる。どんだけ殴って殴って殴り続けてもぴんしゃんされてるってのは、自分の拳がひどく小さくて役に立たないものみたいに思えてくるからだ。


 俺の攻撃は全く効いていなさそうなのに、相手の攻撃は一発で熨されるどころか粉微塵にされそう。だからもう肩で息をしている。人様に誇れるもんは体力ぐらいの俺がだ。今となってはもうそれも出来なくなってしまったが。


「飛び込むなんざたいした度胸だ。あれを見せられると大抵の奴は縮み上がって引いちまう。いい度胸してるぜ」


「こっちは自信なくすわ。なんなのお前、なんで出来てんの煌鉄製ですか」


 そこしか道がないならそこに飛び込むだけなんて当たり前の話。だから倒れないなら倒れるまでぶん殴ればいいだけの話。深く息を吸って、その全部を吐き出した。


 ――静かに四肢に力を込める。


「度胸があるのは認めてやるが、お前それで打つ手なしか。だったらもうくたばんな」


 もう一度、単純な振り下ろしを――される前に打つ。打って封じる。封じて徹す。繰り返し、都合六回。


 相変わらずダメージはなさげなのが全くもって腹立つ。腹立つがまったくの効果なしってわけでもなさそうだ。


 一歩、二歩、三歩。引かせてやった。


「殴られて痛みを感じたのは久しぶりだ」


「その割に楽しそうだな」


 痛いとか言ってんならあるだろ。ムカつくとか腹立つとか怒髪天を衝くとかさ。


「言ったろ。久しぶりって。人間長生きするなら喜怒哀楽を感じるのが大切なのさ。俺にとっちゃそれを一等感じられるのが殴り合いってやつでよ。中でも痛みってのは生の実感を最も得られるかけがえのないもんなのさ」


 なんだよこいつもマゾかよ。


「てめぇがさっき使ったのは東世の技術体系だな。こっち側と違って身体の内側を壊すのが主流だったか。ずいぶん昔に受けたことがあった。とっくに絶えてたと思ったが。まあ随分と練度は甘いが」


 奴の言う通り、俺の拳技の練度は甘い。先人の築き上げたものを俺ごとき凡人が数年そこらで使いこなせるなんて上手い話はない。落とし子であるからなんとか誤魔化せているだけだ。


 言い終わる前に次の攻勢。あいつの口上を聞いてやる義務も義理もない。へらず口を叩く元気があっても殴り掛かる気力がいつまで持つか分かったもんじゃない。


 回転。振動。張力。衝力。我が身に宿る星の光を接触の瞬間に相手に浸透させて内部崩壊を引き起こす、正道からは遠く離れた拳。だからどうしたという話だが。


 身体の回転率を上げていく。両手両足に星の光が集まって、男を内側から壊していく。


 なのに、手応えがない。どこにでもいるような落とし子ならくたばる筈の打撃を受けても薄ら笑いを消せない。


 要所で防いだりはするけど基本はぼっ立ち。のらりくらりとかわされてるみたいでイライラする。奴の目玉は冷静で焦る素振りもない。じぃっと俺を観察しては弱い部分を探しだそうとする魔獣みたいな目だった。


 その目が俺に、大きな決断をする機会を与えない。


「カナタさん!」


 ハルの声。奴の目が俺の後ろに向かった瞬間、足元から木の根のような物が生えてきて足を絡めとる。一瞬では引き剥がすこともできずにたたらを踏んでいる。


 この隙を見逃すな。絶対に、次はないとすら言い切れる。


 水月目掛けて両手での全力掌打。完全に入り、腹の前から背中の裏まで綺麗に通した。もう一度やれと言われても出来ない演舞レベルでの一撃が決まった。


 くの字に折れ曲がった男から初めて呻くような声が漏れる。


「どいてください!」


 再びハルの声。何が起こるのか確かめなんてしなかった。頭上からの圧力にすぐさまそこを飛びのいた。


 杭のような、倒木を模した巨大な槍が複数、男に向かって突き刺さるように降り注ぐ。その中の一つが男に突き刺さる瞬間を確かに見た。


 煌力で編まれた槍はすぐさま光の粒になって消えてしまったが結果は残る。土煙が晴れると男がいた場所を中心にして地面が盛大にえぐれていた。


 巻き上げられた土に埋もれるようにして、男の手が突き出ていた。


 煌力魔法マギア・エテルナ


 ハルが手にしていたのは杖だ。拠点の中に捨て置かれていたぼろぼろに使い古された物で核となった緑色の煌石は光を失った。もうあれは使えないだろう。


 使用者の煌力を媒介と同調させて、様々な技術を展開する機械が煌導器。それをより戦闘用に特化させて星の落とし子が振るう技を再現するのが煌戦器。あの杖みたいなものだ。


 肩を弾ませたハルが俺の隣まで来て穴をのぞき込む。男は動かない。無傷じゃあない。突き出た手には傷があり血が流れている。


「助かったぜ」


「カナタさんがいなければどうにもなりませんでした」


 少しばかりの沈黙。


 なんだろう。普通ならほとんど死んでる打撃を受けてるはずなのにこれっぽっちも安堵感が沸かない。動かない男の姿にもやもやとした不安が浮かぶ。そしてだいたいこういう時、人間の予想は覆されることなく現実に起こってしまうわけで。


 突き出て動かない手を見る。見る。見続ける。あれがあと三十秒動かなかったらすぐさまここから逃げようそうしようったらそうしよう。いや二十秒、いやいや十秒で。


 ぴくり、と指先が動く。ぼこり、ともう一つの腕が出てくる。墓穴からはい出てくるゾンビのようで、決定的に違うのは精気に満ち満ちている所か。こんな時にもかかわらず、いやこんな時だから墓から出てきたゾンビがその場でガチムチポージングしたら面白いと現実逃避。


 服はずたぼろになっているが肝心の中身についてがあんた、重傷どころか元気してますかと思わず丁寧に聞きたいぐらいだった。


 ようするに、元気溌剌って感じ。なんだその良い笑顔は。こっちの気分は陰気鬱屈って感じなのに。


「マジかよおい……」


「流石にあれは、どうなんです……」


 二人して呻いていた。二人とも、つまりは信じられない信じたくないといった類の。


「いいぜ。いいぜぇおい。そっちのお嬢ちゃんも意外や意外。守られるだけのつまんねぇ女かと思いきや致死毒の針を隠し持ってたとはな。流石は魔女の末裔。いいぞお前ら」


 ゆったりとして落ち着いた声。だけどそこから滲む喜色は隠せない。


 傷は確かに負っている。ハルの魔法で腹には穴が開いているし血だって流れ出ている。俺が打った部分もあれ骨砕けてんだろなんで平気なんだよ。なんで機嫌良さげなんだよ不気味すぎんだろ。


「痛みはな、生きてるって簡単に実感出来んだよ。お前らにゃ分かんねぇかもしんねぇが、退屈ってのを忘れさせてくれんだよ」


 言葉に熱が籠る。


「退屈ってのは知らずに自分を麻痺させていくのさ。喜びも怒りも悲しみも楽しみも感度を失わせていく。俺にはそいつが我慢ならねぇ。自分が腐っていくのを眺めているだけなのが許せねぇ」


 やばい。まずい。後退りしているのに気づかなかった。


「だから俺は欲しいのさ。自分が生きてる実感。そいつを感じさせてくれる痛み。痛みを与えてくれる強者。その強者を潰す喜び。強者を喪失する悲しみ。そいつらまとめて食い散らかすのが」


 来る。


「俺の生き甲斐ってやつなんだよォ!」


 奴が地面を蹴った。四つ足の獣が駆けるような低い姿勢。さっきの棒立ちとは違う。初めての攻撃姿勢。ハルを思いっきり突き飛ばした。下から掬い上げるように拳が飛んできたのを受けて反撃―――。


 なんて当然の選択肢が取れるやつじゃない。大きく振りかぶるように見えてそれは直線的で速く鋭い。避けきれない。当たる。防御。腕を十字に。


 両腕が消し飛んだ。俺はそう感じた。


 どうやら俺は当たった勢いそのままに吹き飛ばされたらしい。身体が二つに分断されような衝撃を味わった。


 なにか、喉の奥から絞りだされてくしゃくしゃになった聞き苦しい音が俺の悲鳴だというのは地面を転げて転げて転がりまくった後、まっさらに漂白された頭で気づく。


 まともな言葉が出せない。


 痛みで喉の奥が詰まって呼吸すら困難だ。動くことが出来ないしゃべることも出来ないから痛みを紛らわすことだって出来ない。


 身体。身体は無事なのかと。脂汗で滲む唯一動かせた視界をギョロギョロと転がして両腕がそこらで踏みつけられたみたいな小枝みたいな不格好になってるのを見つけた。他もなんかぶっ壊れてる。俺の目玉も反対を向きそう。


「か、カナタさん⁉」


 ご丁寧にハルのとこまで吹き飛ばしてくれたようだった。


 耳元でがなるんじゃない。うるさいからさ。なんかもう痛いとか苦しいとかそんなの通り越してきたな。むしろ笑えて来るような。ごめん。やっぱ笑えんわ。口元が歪んでいるのは引きつっているだけだ。


 そんな様だが動くことに問題はないな。動けるのなら動かないと。身体を丸めて縮こまって寝てても理不尽は通り越してはくれないのだから。


 息がしづらい。口からも鼻からも血が出てきて止まらん。血が出てくるってことは無事に心臓が稼働中というわけなので動かなくなるまでは動かないとならない。


「そんな様になっても死んだ目してねぇのは賞賛するぜ。しかもまだやる気でいやがる。いいぜお前かっこいいよ。やっぱこういう人間こそやりがいがある。敵わないから諦めて受け入れるなんざくたばって当然な奴らの選択肢だ。お前は生きる価値がある」


 あいつがなにかしゃべっているが理解出来ないしうまく聞き取れもしない。咀嚼出来ない。


 慎重に慎重を重ねて立ち上がる。痛いような気がした。気がしただけなのできっと勘違いだ。動ける動ける問題ない。


「問題ないわけないじゃないですか! 馬鹿ですかあなた! そんなになってもどうして動けるんですか!」


 馬鹿なのは分かってる。でも動かないと死んでしまうだろう。命が失われる前に動く。それだけのこと。


「~~~もう!動かないでください治しますから!」


 何言ってんのか分かんない。え、なにこいつ。頭悪いのかな。ここまで酷いとお前の好きなお薬でも焼け石に水と言いたかったが舌は思うように動かず声もでない。


 押しのけようとした。


 お前邪魔。さっさとレイを連れてどっか行っちまえ。俺のやりたいようにさせろやこら。


 俺はまだ生きていたい。だったらあいつを排除しないと。理不尽は逃げても追いかけてくるものだし。足を進めようとしたけど上手く進まない。というか、動けない。ハルがこの場に留めようと背中から抱きついているからだ。


 ハルが背中越しに何かを呟くと熱気やら寒気やら訳の分からん感覚が身体に取り戻された。次にはっきりと取り戻されたのは痛み。叫ぶとちゃんと、声が出た。力の限り暴れ回ろうとしたのにまだハルが近くにいるもんでそんなんも出来ないちくしょう。


「お前、いったい」


 なにしてんだと言おうとして続けられなかった。


 ぐちゃぐちゃになった腕。元に戻ってる。千切れそうになっていた肩。元に戻ってる。頭おかしくなるんじゃないかと思えた醜い傷が全部。


「おいマジかよ」


 男が驚嘆している。


「落とし子には人を癒す律を持ってるやつがいる。だがせいぜいそいつは時間をかけて多少の傷を塞いだり病を治したりって程度だ。そこの嬢ちゃんのように一瞬で元通りにするなんざ女神に仕える聖女さまレベルだ。つまり、歴史上でも一握りってわけだ」


 そのハルが、ずるりと背中に重くもたれかかってきた。ひどく荒い息が耳に届く。俺に起こったのは奇跡みたいなもんで、奇跡には代償が必要と相場が決まっている。


「ここまでするつもり、なかったんですけどね。大サービス、ですよ」


 蒼白を通り越した土気色。冷汗の量が半端じゃない。なのになに笑ってやがんだこいつは。満足かくそったれ。くそなのは俺だ。俺にはハルに報いる術がない。


「残念だ。お前ら今のまんまでこんだけやれんのに自分の星がどんな律なのか気づいてねぇ」


 律って。自分にどんな素養があって、どんな指向をしてるかって話じゃないのか。


 あいつが何を言いたいのかさっぱり分からない。分かっているのは俺らとあいつの間に横たわる埋められない力の差。そしてそれを縮めるなんて一朝一夕では出来るわけがないってことだ。


 命を諦めるなんて選択肢はない。諦めは全てをやりつくした後で嫌々と、そして渋々と、忌避感を露にしながら受け入れるもので無抵抗に受け入れるものじゃない。俺はそういう人間でなくてはならない。


 では、残りの取れる手段はなにか。命乞いに意味があるとは思えない。はいつくばって許してくれと言ったら見逃すような奴でもないだろう。


 だったら何が出来るかを考えて考えて考えてーーー。


「あーん?」


 男の目が逸れた。


 視線の先、強い風に殴られて灰色の髪がばたばたと靡くレイの姿があった。その手にはハルの黒煌石が乗っかっている。


「へぇ、こいつはまた随分と勇ましいお子さまで」


 男がレイに向かって歩いていく。


 近づかせてはいけない。その一心で無策のままに殴りかかったらこともなげに足蹴にされてあしらわれた。どこぞの骨が逝ったが構うものか。再び突撃し、また同じようにあしらわれてはどこかが欠損する。


 ハルもハルで壊れかかった杖で魔法を生み出しているが少しだけ足を進めるのを遅らせることしか出来ていない。そしてうぜえよと男が一声あげて片手を振り上げると鋭利な爪めいた赤黒い光がハルを裂いた。


「お前、幾つだ?」


 なにを言っているのか。それがさもこの世の理よりも重要なことであるかのように、男が片膝をついて目線を合わせてまで聞いている。


「五以下なら見逃してやれるんだが……」


 だがレイから返答はない。ただじっと男を見上げていた。


「見たとこ六、七ってところか。兄ちゃん姉ちゃんがやられて気に入らないってか。喧嘩を売るならもう少しでかくなってからにしな、小娘」


 指先。男にとっては最高に手加減して弾いただけなのだろう。額に一筋の切れ目。流れ出る透徹した赤い血。すると男の浮かべていた笑みが凝固した。


「お前、その顔、どこかで………」


 笑みが溶けると見る間に焦燥や嫌悪、怒りに変化する。男が自分自身でどうしてそう思っているのか分からないようで顔を顰めている。


「………気味悪ぃ」


 低く冷たく、それでいて底には燃える溶鉱炉でどろどろに溶けた感情が、その一言に殺意を込めて凝縮されていた。


 あいつを死なせてはならない。死なせるな死なせるなと。

 俺が俺に課した誓いであり掟。身体中が命令を発している。その命令が動くのも億劫だった身体に熱を通わせ強制的に起動させる。


 わめいて叫んでどんな言葉だかも分からない音が口の中から出ていた。あの男のように獣のように突進してここにきて初めて殴り飛ばせた。男の足が地面から離れ、宙を浮く。その口の端から鮮血が弧を描く。


「てめぇ……!」


 ざまあみろ。ガキに手を出そうとした当然の報いだ。死ねくたばれ。


 結局のところ、これは最後の悪あがき、無駄な抵抗、むしろ余計な怒りを被っただけだった。


 全力を振り絞り、地面に這いつくばる俺を見下ろす冷たい視線。野の獣が瀕死の獲物を観察するような冷徹な視線。けれどその視線は俺を素通りしてレイに向く。


 いつもこうだ。現実は理不尽まみれ、避けても遠ざけても向こうの方からわざわざ不幸な人間を探して擦り寄っては絡めとってくる。


 いやだ。死ねない。死なせられない。こんなくそわけわかんない奴に殺されるなんて納得出来ない。納得できないなら抗うしかない。抗うためには生きねばならない。生きるためには殺さなければならない。


 だからだからだから―――。


 混濁する意識。氾濫する思考。動かない身体。そんな中で異常なまでに研ぎ澄まされる視覚聴覚触覚。


 目はレイと男の姿を収め、いよいよ獣の爪の形をとった赤黒い光が小さな子どもを食らおうとしている場面を克明に伝えてくる。


 そして耳は、どこからか響く冷たく恐ろしい女の声を拾ってきた。


 ハルだ。ハルの声。でもこれは本当にそうだろうか。まったく別の女の声のようでもあって、それでも発しているのはハルで。ああつまり、ハルの声を浸食するようにそれは朧気げでも別の誰かの声なのだ。


『Ne abiret odium』


 それは愛憎に狂っているようだった。それは歓喜に泣いているようだった。


『Volo ut be a frigore flamma』


 それは希望に凍てついているようだった。それは絶望に焼かれているようだった。


 それは誰も触れられない世界の向こう側から響いてくる呪詛だった。


『Im ‘a album pythonissam』


 世界が白と黒で混ぜ合わされ、灰色に塗り替えられていく。


 どこかで時計の針が動いた。

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