第一話

 私立聖北高校三年生、真波飛鳥。彼はスポーツの強豪校であるこの聖北高校で器械体操部のキャプテンを務めていた。毎日部活と勉強に明け暮れ、所謂青春と言う物を謳歌していた。

 同級生の東海林和哉とは幼馴染で、一緒の少年クラブで体操を始めた。体操を始めてもう十五年。三歳の時に父に連れられて体操クラブの体育館に入った時の興奮は今でも覚えている。

 和哉は毎朝飛鳥の家に来て一緒に登校していた。しかし今日は和哉が来ない。電話を掛けたが留守電に繋がってしまった。飛鳥は不思議に思いながら一人で学校に行くことにした。

「おはよ!飛鳥!」

「おはよう美月」

 部のマネージャー、佐々木美月が飛鳥に声を掛けた。学校に向かうバス停での事である。

「今日は和哉どうしたの?一人?」

「うん、連絡も付かなくて一人」

「珍しいね」

「そうだね」

 美月は単語帳を開きながら欠伸を一つした。春。今年で彼らは三年生になってしまったので、今度の大会で上位に入らなければ引退になる。そうすれば必然的に受験勉強をする事になるだろう。

 美月は飛鳥の横で一心不乱に単語を口にしていた。

「てんぷらちゃー、てんぷらちゃー……」

「温度」

「うわ、よく覚えてるね」

「今日のミニテストの範囲位覚えてるよ」

「凄いね、あたし英語はからっきしだから羨ましいわ」

 飛鳥はクスクスと笑いながら美月の単語帳を覗き込む。随分と草臥れてクタクタになっている単語帳。飛鳥はそれを見て口を開いた。

「風呂でも英単やってんの?」

「よく分かったね、やってるよ」

「単語帳クタクタだぞ」

「これは歴戦の単語帳だから」

 ちょっと胸を張って美月がそう言うので、飛鳥はまた笑ってしまう。

 バスがやって来た。二人が乗り込むとバスはぎゅうぎゅう詰めで、飛鳥は美月を庇いながら口を開く。

「俺のエナメルの鞄掴んでいいから、ひっくり返るなよ」

「あ、ありがとう」

 美月はおずおずと飛鳥のエナメルの鞄の紐を掴んだ。バスは時たま大きく揺れて、飛鳥は美月を支えながら溜め息を吐く。

「今日の運転、荒いな」

「確かに」

 暫くそのままの状態が続いた。バスが聖北高校前に着く頃には、二人はグロッキーになっていた。

「あたし吐きそう」

「せめてトイレまで我慢してくれ」

「ちょっと急ぐわ。また教室で」

「ほい」

 飛鳥は走って行く美月を見送って、空を見上げる。快晴。雲一つ無いと言うのに、飛鳥の胸中は穏やかではなかった。何か嫌な予感がする、そんな感じであった。


 授業が始まっても、飛鳥は和哉の事が気掛かりであった。教室にも姿を現さないので、昼休み時間に職員室へと向かった。

「失礼します、東条先生に用があって来ました」

「どうした?」

 数学教師で飛鳥達の担任である東条璃音が立ち上がって職員室入口までやって来る。

「あ、大した用ではないんですが、和哉が休んだ理由が知りたくて」

 璃音は少し思案してから口を開いた。

「和哉は怪我をしたらしい」

「え?」

「今日親御さんから、事故ではないが怪我をして病院に行くから休むと連絡があった」

「そうなんですか」

「ああ。僕も詳しい事は分からないんだ、すまないな」

「分かりました、ありがとうございます」

 飛鳥は呆然としながら職員室を後にする。和哉が怪我をした?昨日の部活までは何とも無かったじゃないか?そんな思いで教室に戻る。

「飛鳥、大丈夫?」

 隣の席の美月が心配そうに飛鳥の顔を見ながら言った。

「和哉が怪我したらしい」

「え?」

 美月も先程の飛鳥と同じような反応をする。

「だって、昨日まで普通に部活してたじゃん」

 飛鳥は何も言えなくて俯いた。心配なのは二人とも同じであった。

「大会前なのに、大丈夫かな」

「分からない」

「大した怪我じゃないといいね」

 美月がそう言うので、飛鳥も頷く。タイミングが良いのか悪いのか、そこで予鈴が鳴った。二人は不安そうな顔をしながら、授業に臨むのだった。


 放課後、美月と飛鳥は二人で部室へと向かった。二人とも何も言わず、神妙な顔をしている。

「お疲れ様です!」

 二年生の真宮翔太朗が部室へと入って来た。

「お疲れ」

 飛鳥は無理矢理笑みを作って翔太朗に声を掛ける。

「あれ、和哉先輩はどうしたんすか?休みっすか?」

「ああ、休みだ」

「珍しいっすねー。風邪なんて引かなそうなのに」

「……」

 美月が先に部室を出たので、飛鳥は無言で着替えを始めた。

「大丈夫っすか?顔色悪いっすよ?」

 翔太朗が飛鳥の顔を伺ってそう言う。

「大丈夫だ」

 その後ぞろぞろと一年と二年の部員がやってきたので、飛鳥と翔太朗の話はそれっきりになってしまった。


 聖北高校では器械体操専用の体育館がある。器具が揃っているので、出しっぱなしでも良いようになっていた。

 飛鳥と翔太朗は揃って体育館に入る。

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 体育館に入る時と出る時は必ず挨拶する事になっていたので、二人とも大きな声で挨拶をして床に向かった。

 床で柔軟体操と筋トレを終えた二人はまず鉄棒から入る事にし、タンマ、炭酸マグネシウムの粉をプロテクターに付ける。

「美月!タンマ足りなさそうだから部室から持ってきて!」

「はーい!」

 飛鳥は残っていた炭酸マグネシウムの粉が少ない事に気が付いて美月に声を掛けた。


 飛鳥は頭を空っぽにして練習に励む。和哉の事を考えないようにしていた。悪い事ばかり考えてしまうので、それを払拭するように練習する。鉄棒を小一時間していたら手の平の豆が潰れてしまい血が出た。テーピングを巻いて、次にどの競技を練習しようか悩んでいると、翔太朗がトランポリンに飛鳥を誘った。

「先輩、後方の伸身二回宙教えてください」

「おう、良いよ」

 トランポリンで一度後方一回宙返りをして感覚を掴んでから、飛鳥は二回宙返りをして見せる。

「腰から持ち上げる感じで、顎は引いて。立つ事よりも回る感覚だけ掴めれば」

「了解っす」

「あ、待って、マット直す」

「あざす」

 トランポリンの縁にかかるマットを直して、飛鳥は良いよ、声を掛けた。翔太朗は緊張した面持ちで二回宙返りをやって見せる。

「こんな感じっすかね」

「顎上がってる、もっと引いて」

「了解っす」

 何度もお手本を見せながら、飛鳥も伸身二回宙返り二回ひねりを練習した。


 今日の練習はいつもより集中して出来たなと、飛鳥は部室で着替えながら思った。トランポリンに長くいたせいか、足元がふらふらする。

「着替え終わった?」

「まだ」

 部室の外から美月の声がした。飛鳥は急いで着替えを済ませて部室の外に出る。部室には他に誰もいなかったので、鍵をかけて二人で職員室へと向かった。

「和哉、来なかったね」

「そうだな……」

 美月がそう言うので飛鳥は和哉の事を考える。何も浮かんでこない。何を言ったら良いか分からない。そんな状態の飛鳥を見て、美月は何も言えなかった。

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