【愚か者の木曜日】

 訳がわからないまま、それでも座席の位置以外はとくにいつもと変わりのない一日を送って帰宅した、その次の日。

 僕は、昨日の“ハプニング”が、さらに続く“異変”の序曲にしか過ぎなかったことを思い知らされたんだ。


 その前の晩同様寝苦しい一夜を過ごして熟睡できなかったせいか、一時間目の数学の授業が始まっても、僕はどうにも頭が働きが鈍いのを感じていた。

 寝不足のうえ、黒板から遠くて板書が見づらく、先生の声も幾分聞き取りづらいこともあって、いまひとつ授業に集中できてないのが自分でもわかる。


 (こんなんじゃダメだ!)


 そう思うんだけど、5月の連休が終わったばかりとあって気候もよく、窓際のこの席では、ついうたたねしたい誘惑に駆られてしまう。


 「それじゃあ、この問題を──そうだな。折原、わかるか?」

 「は、はいッ!」


 重いまぶたと必死に戦っていた僕は、思いがけずに数学の高梨先生に当てられて、慌てて立ち上がる。


 黒板の前に歩み出て、チョークを手に、いざ数式を解こうとしたんだけど……。

 授業をよく聞いてなかった上に慌てているせいか、どうにもこうにも問題の解き方が浮かんでこなかった。


 「ん? どうした、さすがに学年3位の折原でも、この問題は難しいか? うん、じゃあ座れ」


 幸い元々かなり難度の高い問題だったらしく、先生はさして不審に思うことなく、僕を席に戻してくれた。


 「それじゃあ、ほかに誰か、わかる人はいるかな?」


 先生の口ぶりには、「ま、いないだろうな~」というニュアンスが込められていたんだけど、その中でもひとり手を上げる生徒がいたんだ。


 「──はい、先生」

 「おっ、東雲、もしかしてコレが解けるのか!?」


 高梨先生が驚くのも無理はない。

 東雲さんは、運動神経は抜群だけど、勉学の成績の方はお世辞にも良いとは言えない、女の子に対してはどうかと思うけど「脳筋」という言い方がさほど的外れではないタイプの生徒のはずなんだ。


 「解ける、と思います」


 普段は先生の目を盗んで居眠りするか、せいぜいやる気がなさそうにノートを取ってるくらいの東雲さんが、こういう場面で積極的に手を上げたうえ、さらに黒板の前で難解な数式をサラサラと解いてみせるなんて……。


 「午後から雨、いや雪でも降るのでは!?」というのがクラスメイトの一致した感想だったろう。


 「ふむふむ──うん、正解だ。よく予習してあるな。感心かんしん」


 劣等生だと思っていた生徒の思わぬ進歩の跡を見れて、高梨先生は上機嫌だったけど、僕はそれどころじゃなかった。


 (どうしよう……わからない)


 東雲さんが黒板に書き連ねた数式の意味が、なぜか巧く理解できないんだ。


 (きっと寝不足で頭が回ってないせいだよね)


 そう無理やり自分を慰めてはみたものの……。


 数学だけじゃなかった。

 2時間目の理科も、3時間目の国語も、4時間目の社会科も、教科書に書かれていることや先生の説明の半分くらいしか理解できないんだ。


 「よぉ、折原、なんか調子悪そうだな」


 同じ小学校の出身で、クラスの中では比較的僕と親しい大鳳(おおとり)くんが昼休みにそんな風に声をかけてくれるくらいには、僕は顔面蒼白になっていたらしい。


 「あ、うん。その、ここ2、3日、なんだか寝つきが悪くって……」

 「お前、見るからに神経質(ナーバス)そうだからなぁ。男なら、あんまり、細かいことは気にせず、ドーンと構えてみろよ」

 「ハハッ、うん、まぁ、がんばってみるよ」


 力なく笑ってみせる。


 「すごーい、いつの間にそんなに頭よくなったのよ、市歌?」

 「ふふっ、たまたまよ、たまたま」

 「ねぇねぇ、次の英語の授業の宿題なんだけど……」

 「ああ、それはね……」


 「なぜか急に勉強ができるようになった」東雲さんを中心に女子が盛り上がっている光景から目を背けて、僕は重い腰を上げてパンを買いに学食へと歩き出すのだった。

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