3
「そっか。秋姫ちゃん、十六歳なんだ」
傷の少ないダイニングテーブルの向かい側で、お母さんはそう言って紅茶を啜る。私の手元のマグカップと同じレモンティーだ。そういえばお母さん、昔からこのお茶が好きって言ってたっけ。柑橘の匂いがする温かいお茶を、私も一口含む。
「制服着てるもんね。高校生?」
「はい」
お父さんの言葉に頷いて、はっとする。しまった、このままじゃ危ないかもしれない。学校の名前を教えたら、きっと連絡されるだろう。私が生まれたばかりってことになっている以上、確実に面倒なことになる。
「どこの学校に行ってるの?」
「え、えっと……それが、ちょっと……お、思い出せないんです」
我ながら言い訳が苦しすぎるかと思ったけど、案外納得してくれたらしい。二人が顔をしかめることはなかった。
「じゃあ……ご両親は?」
「両親、は……」
あなたたちです、なんて言うわけにもいかない。何て返せばいいんだろう。
「……い、いるんですけど、帰りたくなくて」
迷っているうちに、つい言葉が口をついて出てしまった。まずい、これじゃ確実に家出してきたって思われる。その予想が当たったのかはわからないけど、目の前の二人は僅かに眉をひそめた。
「帰りたくないって、どうして?」
お父さんの問いかけに、思わず視線が落ちる。レモンの香りを漂わせる、澄んだ赤色の液体の中から、私が見つめ返してくる。
「……その……私の両親は、私のことが……嫌い、だから」
それは、私が悪い子だから。私が、二人の期待に応えられないせいだ。マグカップを握る手に、思わず力がこもる。
「え? きっとそんなことないよ」
驚いたような声が、視野の外から飛んでくる。顔を上げると、お母さんの真剣な視線とぶつかった。
「親って、何があっても自分の子供を愛するものだよ」
「そう……なんですか?」
「うん。だから、秋姫ちゃんのご両親も、きっと秋姫ちゃんを好きだと思う」
息が詰まったような感覚に襲われる。何の言葉も出てこない私の脳内に、お母さんの声が流れる。目の前のお母さんの声じゃなくて……私が、以前お母さんにかけられた言葉。
――あんたみたいな子、産まなきゃよかった――。
思い返した途端に、手が小刻みに震え始める。何度言われても、あの言葉に慣れることができない。
ああ言っていたお母さんが、本当に、私のことを好きだったのかな?
「そうだね、俺もそう思うよ。親の気持ちって、わかりづらいと思うけどさ」
お母さんの横で、お父さんもそう言って笑っている。
――お前がうちの子供だなんて、恥ずかしい――。
以前のお父さんは、確かにそう言っていた。今日、私がいつもの家に帰っていたなら、また同じことを言われていたかもしれない。
そんなお父さんの好意が、わかりづらかっただけなの?
いや、でも……二人がそう言うなら、きっとそうなんだ。私が、勝手に嫌われていると思ってしまっただけなんだ。信じたい一心で、言葉を紡ぐ。
「お……お二人は……もし、子供が悪い子だったとしても、ずっと好きですか?」
「悪い子、かあ」
「例えば……あまり成績が伸びないとか。なかなか言われた通りのことができないとか」
お母さんの口角が上がる。どこか可笑しそうに小さく笑った後、言葉が続けられた。
「ええ~、それはちょっと嫌だなあ」
息が、止まった。
お母さん、今……嫌、って言った? でも、だって、何があっても愛するって。
「まあ、手は尽くすけど……もうどうしようもないって思ったら、諦めちゃうかも」
「やっぱ、頭のいい子に育ってほしいよな」
「そうそう。言うことを聞く素直な子のほうが可愛いし」
また声を出せなくなった私の前で、二人はすらすらと話を続けていく。さっきの言葉は、何だったんだろう。何があっても愛するって、何だったの。
でも……二人がそう言うなら、そうなんだよね。いつだって、私よりお父さんたちのほうが正しいんだから。
ダイニングテーブルの向こう側には、ベビーベッドが置かれている。そこに居座る乳児は、綺麗な服を着ていた。傍らには、新しくて可愛い玩具。ただ穏やかに眠っているこの子が愛されていることを、パステルカラーのベビーグッズが、無言で伝えてくる。見ているのが辛くて、思わず視線を落とした。
きっと、お父さんとお母さんは、あの子を――私を、愛したかったんだ。でも、そうできなかったんだよね。私が、両親に嫌がられるくらいの、悪い子だから。そうなることしか、できなかったから。
そうなんだよね? マグカップの中から見つめ返してくる自分に、視線だけで尋ねる。もう見飽きた顔は、否定も肯定もしてくれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます