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――……さあっ、と音が聞こえる。
雨かな? いや、たぶん木の葉が揺れる音。
頬に、柔らかい風を感じる。ああ、教室の窓が開いたのかな。美琴、いつもみたいに起こしてくれればいいのに。それとも、どこか行っちゃったのかな。
目を開ける。まだ重い瞼は、ゆっくり開いていった。
「……えっ」
思わず、声が出てしまう。目の前には、小さな公園の風景が広がっていた。あるはずの黒板の代わりに、ブランコや滑り台が見える。所々色の剥げた遊具たちは、誰にも触られることなく、ただそこに佇んでいた。視線を少し落とせば、明るく日光を反射する地面がある。ばらばらと生えている雑草やタンポポが揺れると同時に、頭上でまた雨に似た音がする。見上げてみれば、密集した葉の緑色がざあざあと動いている。いくら枝が揺れても、その隙間から見えるのは青い空だけ。教室の天井なんてどこにも見えなかった。さっきまで突っ伏していたはずの机も消えているし、椅子さえも古びた木製のベンチに変わっている。
「何これ……ゆ、夢?」
それにしてはちょっとリアルすぎる気がする。けど、そうでもなきゃ説明がつかない。それか、誰かにここまで運んでこられた? 一体、何が起きているの?
おそるおそる、ベンチから立ち上がってみた。足裏に伝わってくる土の感触はしっかりしている。そのまま歩き回ってみたけど、特に変わったことは起こらない。小さな花壇に並んだパンジーが喋ることもない。宇宙人が空から降りてくることもない。夢なのか現実なのか、わからなくなっていく。いっそ、そのくらい不思議なことが起きてくれれば、夢だとハッキリわかるのに。
鞄もスマホもないし、行くあてもない。ブレザーの左ポケットに手を突っ込んでみると、小さな短冊をザラザラ掬い出しただけだった。眠る前まで暇潰しに切っていたアレか……やっぱり、ちゃんと捨てておけばよかったなぁ。
紙くずを公園のゴミ箱に捨てる。でも、だからって何か変化が起きるわけでもない。ただウロウロと、フラフラと、それほど広くない公園の中を歩き回る。方向転換をする度に、顎の辺りまである髪が頬に当たった。本当に、こんなところまで現実そっくり――。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
不意に、自分のじゃない声がした。驚いて呼吸が止まる。自分の声ではないけど、知らない声でもない。むしろ、毎日聞く声だ。私は、この声を知っている。
ゆっくり振り返ってみる。そこにいたのは、二人の大人だった。片方は男性、もう片方は女性。夫婦らしき二人は、スーパーのビニール袋を手に提げて、私を見つめている。女性の肩につけられた抱っこ紐では、赤ちゃんが眠っていた。
「何か困ってるの? 私たち、さっきから見てたんだけど……お姉ちゃん、しばらくウロウロしてたから」
女性の口からは、さっきと同じ声が紡がれる。やっぱり、知っている声だ。髪が肩まで伸びていたり、体型が少し細身だったり、細かいところは一致しない。それでも、女性のその顔は――私のお母さんと同じだった。
「荷物も持ってないみたいだし。何かあった?」
視線を隣の男性に移す。目尻の皺がないだけで、この人も……やっぱり、私のお父さんと同じ顔。なんで、二人がここにいるの?
「あ、あの……ここって……?」
視線を二人の顔に彷徨わせながら、尋ねてみる。ああ、少しだけ首を傾げる仕草まで、お母さんと全く一緒だ。
「ここ? 新緑公園だよ」
新緑公園? 昔から近所にあった公園だ。もう十年近く行ってないけど……って、そんな場合じゃない。
「えっと……私、あの……」
何を言えばいいんだろう。二人とも、なんだか若返ってるように見える。もしかして、他人の空似? 二人は私のことを知らないの? その赤ちゃんは誰? これはやっぱり夢? でも、そんなことより早く答えないと。ちゃんと喋らないと。怒られる。
入り乱れる思考に邪魔されて、まともに考えられない。立っているのがやっとで、二人と視線を合わせることもできない。不意に、視野の上方で、お父さんが片手を上げた。
「ごめんなさい――ッ」
反射的に目を固く瞑ると同時に、体が強張る。だけど、覚悟していた痛みは来なかった。お父さんが上げた手は、そっと私の肩に置かれる。
「大丈夫だよ、落ち着いて。なんだか、ちょっと混乱してるみたいだね」
お父さん、怒ってるときの声じゃない。
「じゃあ……そうだね、一回うちにおいで? ねっ、座って話そう」
ゆっくり顔を上げる。優しく笑うお母さんと、目が合った。
全く別の、他人なのかもしれない。でもやっぱりその笑顔は、幼い頃に見ていたものと同じに見えて仕方ない。
「……はい……ありがとう、ございます」
強く握りしめていた手を少し緩める。ああ、そうだ……お父さんとお母さんは、こんな顔で笑う人だったな。ぎゅっと絞られるように、胸の真ん中が痛んだ。
二人が連れて行ってくれた先は、見慣れた私の家だった。住宅地に並ぶ、ごく普通の一軒家。でも完全に一緒じゃなくて、壁も屋根も少し綺麗に見える。雑草しかなかったはずの花壇には、小さな花が何輪か咲いていた。家の中に上がると、違いはもっと顕著だ。何年か前にお母さんが捨てていたはずの花瓶が、下駄箱の上を飾っている。リビングには、子供用の椅子やベビーベッドがある。チラッと台所に目をやると、両親愛用のマグカップに混じって、哺乳瓶が見えた。ベビー用品なんて、数年前に親戚へ譲っていたはずなのに。
「ごめんねえ、狭いでしょ」
背後から、お母さんの声がする。
「あっ、いえ、全然!」
言葉を返しながら振り向く。二人ともまるで他人みたいだから、なんだか思わず敬語になってしまうし、緊張する……。足を小さく踏みかえているうちに、お母さんが抱えている赤ちゃんに目が留まった。
「お子さん……ですか?」
尋ねると、お母さんは優しく笑う。
「そう、先月生まれたの。初めての子供なんだ」
「初めて、の……」
「うん、女の子なの」
お母さんが産んだ、一人目の、女の子?
「……名前を……聞いてもいいですか?」
大事そうに抱かれている乳児から、視線を外すことができないまま、問いかける。
「名前はねえ、アキっていうの」
「アキ……」
「そう。秋生まれだからね、秋の姫って書いて、秋姫」
――ああ、やっぱり、そうなんだ。そうなってしまうんだ。
ぐらり、と緩やかな目眩に襲われた。瞬きを繰り返して、必死に自立する。
「あっ、お姉ちゃんの名前は何ていうの? まだ聞いてなかったね」
問いかけられた言葉に、動きの鈍い頭で答えを紡ぐ。
「わたし……私も、同じ名前なんです。秋の姫で、秋姫……」
赤の他人なんかじゃない、お母さんの顔がパッと明るくなった。
「えっ、本当? 字まで同じなんだあ、すごいね!」
スーパーの袋が擦れる音と一緒に、お父さんがリビングに入ってくる。
「ん、なんか楽しそうだね。何の話?」
「昴、聞いてよ、すごいの。お姉ちゃんね、うちの子と名前一緒なんだって! 文字まで全部一緒なの!」
「へえー! 秋姫ってなかなか珍しい名前なのにね。こんなこともあるんだね」
「すごいねえ、素敵だね。何かの運命かもねえ」
「はは、本当に芽衣子はそういう話好きだな」
楽しげに話す二人は、私の両親と同じ名前で呼び合っている。ゆっくりと視線をずらして探し当てたカレンダーは、十月を示していた。私はもともと、十月一日にいたはず。もしも、日付がそのまま引き継がれているのだとしたら……この子が生まれたのは、やっぱり私の誕生日と同じ時期。
相変わらずリアルすぎて、夢か現実かわからない。だけど間違いなく、私は自分が生まれたばかりの頃に来ているんだ。でも、どうしてなんだろう……?
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