第6話◇怪狼の正体
狼の鳴き声が聞こえた。
森全体がその声に恐怖しているかのように、木々や大地、そして馬や俺たちの肌まで震える。
一発で、普通の狼の咆哮ではないと分かる。
「……兄上が怪狼に接触したわけではあるまい?」
馬を落ち着けながら、騎士に意見を求める。
「はい、別れてからそう経っていません。怪狼は中心部にいると思われるので、ニコラス様と言えどまだ到達しておられないでしょう」
「では、今の咆哮は……」
続けて、もう一度狼の叫びが響く。
今度も怪狼なのは分かったが、先程とは何かが違う。
それに――。
「一度目とは鳴き声が離れている……? それだけじゃない、今の――近くないか?」
俺の言葉に、騎士二人が顔を見合わせ、動揺を露わにした。
「ま、まさかそのようなことが……」
若い騎士の焦りようも尤も。
魔法を使える獣を魔獣と呼称する。
魔獣と化した狼ならば、魔狼と呼べばいい。
それをわざわざ怪狼と呼んでいるのだ。
魔狼の中でも、更に特別。怪物の中の怪物。
周囲の魔獣が逃げ出すほどの脅威。
それが、二頭もいて。
その内の一頭が、この近くにいる?
「何事にも例外はあるものだな」
ちらりと見えたその体毛に、【蒐集家】が反応している。
――分かってる。危険だと知りながら、ずっと興味をそそられていた。
魔狼を超えた特別な獣。
なんとか我慢して森を通り抜けようとしたが――遭遇してしまった。
外縁には来ないとのことだが、異常事態なんていくらでも起こり得るのが現実というもの。
「戦闘態勢!」
壮年の騎士が叫び、若い騎士が慌てて剣を抜く。
シュノンは「あわわわ」と目を回している。
騎士二人は俺を庇うように前に出た。
俺もシュノンを庇うように馬を移動させる。
「ロウ様! すぐに森の外へ――」
「いや間に合わない! 我々がお守りするのだ!」
騎士たちの会話がどこか遠くに聞こえた。
木々の合間を縫ってこちらに迫るのは、白銀の体毛を生やした、神々しいまでの巨狼だ。
青い瞳は宝石のような美しさと、過酷な環境を生き抜く野生の鋭さを兼ね備えていた。
輝くような体毛の一部は、赤黒く汚れている。血だ。腹部を怪我しているのか。
しかし、他者を圧倒する怪狼が――まさか。
――『聖獣(狼)・分霊』
――動物が魔獣化したのではなく、精霊が肉体を得た存在。
――土地の淀みを浄化するなど、悪しきものを退ける性質を持つ。存在が大きくなると、子供を産むように分霊を創り出す。
――希少度『S』
分霊……説明を見るに怪狼の場合は子供寄りの分身といったところか。
もう一体が親で、こちらは幼体と捉えていいだろう。
子供の方は、まだ鋼鉄の森の王には遠く、親と離れている時に怪我をした?
じゃあ今こちらに向かっているのは――逃げている最中?
俺の予想を裏付けるかの如く、数体の魔獣が子怪狼を追いかけるようにして現れた。
現れたのは、魔獣化した大猿、大猪、大蠍だった。
かつて兄の魔獣退治を見学する機会があったが、その時は魔獣も一体だった。
兄のいない今、この状況を切り抜けられるかどうか。
――状況を整理しろ。
興味を唆られているのは否定しない。怪狼――聖獣の分霊は正直気になる。
だが今優先すべきはシュノンの命だ。俺についてくることを選んだメイドを、出発してすぐに死なせるわけにはいかない。
同じくらい、自分の命も大事だ。俺が死ぬような結果を、シュノンは許さないだろう。
俺のことを守ろうとしている騎士二人にも死んでほしくはないが、彼らは命を懸けるのも仕事の内。俺からの心配など不要だろう。
聖獣と、目が合う。
こいつがこのまま俺たちのいるところを突っ切るとして、敵意がないとしてだ。
後ろの魔獣達の標的が俺たちに移る可能性はある。
それが最悪の事態。
――お前は聖獣なんだろう。本体は怪狼なんて呼ばれて恐れられてるんだぞ。分霊だか子供だか知らないが、逃げるだけなのか。
――三対一が難しいって言うなら、二対一ならどうだ? 一対一ならさすがに勝てるだろ?
視線だけで意思疎通ができるとは思わない。
だが、何も通じないとも思わない。
交錯までの短い時間で、両者が生き残る道を模索する。
それを行動に移せば、聖獣なんて呼ばれる存在のことだ――。
聖獣が、頷いた気がした。
「二人は蠍を! 俺が大猿の相手をする!」
「なっ!?」
若い騎士の叫び声を聞きながら馬で疾走。
馬は怯えていたが、俺の指示にしっかり従ってくれた。
後ろからシュノンの「ロウさまっ!?」という驚きと心配の声が聞こえてくる。
聖獣と俺の距離が急速に縮まり、そして――すれ違って離れていく。
巨狼に噛みつかれることも轢かれることもなく、俺は標的である大猿に向かう。
――『魔獣(大猩猩)』
――魔獣化した大猩猩。極めて凶暴。使用魔法は『筋力強化』『硬化』。
――比較的若い個体。群れでの地位を高めるべく、聖獣打倒へ動いた。
――希少度『/』。
魔獣は等しく人類の脅威だが、大猿タイプは存在としてはありふれている。
珍しさで言うと、大したことがないわけだ。
とはいえ、珍しさで勝敗が決まる戦いじゃない。
見上げるほどの大きさだ。大木の幹も片手で握りつぶせそうな怪物。
巨狼との間に割って入ってきて邪魔者である俺に対し、胸を叩いて敵意を剥き出しに。
人の鼓膜を破る気で銅鑼を叩いても、ここまでうるさくは出来ないだろう。
そんな音を間近で鳴らされた瞬間、馬が怯えて棹立ちになる。
宥める時間はない。
俺は馬の背から飛び降り、『始まりの聖剣』を抜き放った。
白く淡い輝きを纏っているようにも見える両刃の剣が、鋼鉄の森の空気に晒される。
俺は大猿に向かって駆ける。真正面には立たず、やつの右半身に向かって走る。
すると当然、やつにとっては右拳を叩き込むのが体勢的に楽で早い攻撃になる。
そして、来た。
バカでかい上に凄まじく速い。
喧嘩に慣れていないと、殴られるのは怖いものだ。相手が拳を構えただけで身が竦み、思わず目を瞑ってしまう。
けれど反撃したいなら、冷静に構え、相手の攻撃をよく見なければならない。
荒くれ者共だらけの貧民窟で、自分と病気の母、そしてシュノンの生活を賄うのは大変だった。
さすがに魔獣と戦うことはなかったが、倍の体格でこちらを威圧する大人との暴力沙汰は日常茶飯事。
その時についた度胸が、こんなところで役立つとは。
人生、何が将来に役立つかわからないものだ。
とにかく、俺の体はちゃんと動いていた。目もかっぴらいている。
更に数歩左にずれ、剣身だけがやつの右拳と接触するように。
そして――走り抜ける。
これが普通の剣なら圧し折れて、衝撃を殺しきれずに俺も吹っ飛んだかもしれない。あるいは両腕がぐしゃりと折れたか。
だが俺が振るったのは聖剣だ。
【剣聖】の兄より賜ったのは、竜の鱗さえも薄紙のように裂く刃。
大猿の拳など、何の抵抗も感じずに切り裂ける。
「――――――――ッ!!??」
右腕の肘までに冗談みたいな裂傷を負った大猿が、声にならない叫びを上げる。
飛び散る大量の血液が、ばしゃばしゃと大地に潤いを齎す。
身体を反転させ、すぐに状況を確認。
二人の騎士は上手く連携し、蠍の尾を切り落とすことに成功していた。
そして聖獣は――大猪の喉笛を噛み千切っていた。
そのまま大猪を放り投げ、蠍の真上に落とす。それだけで蠍は潰れて死んだ。
その蠍が落下するよりも先に、聖獣は片腕を負傷した大猿に迫り、その胸に爪を突き立てる。
大きな音を立てながら倒れた大猿は、体内に食い込んだ爪を聖獣がひねったことで、息絶えた。
決着は一瞬。
圧倒的なまでの力は、俺達がいなくても勝てたのではないかと思えるほど。
だが実際、聖獣は怪我を負って逃げていた。
俺たちの介入は少なからず役に立った、と考えてもいいだろう。
さて。
共通の脅威が失われた今、聖獣の次の行動は――。
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