第6話

 再び藤原がアメリカへ旅立ったあと、伊庭はあき子の離婚成立のための手助けに乗り出した。そのうちにわかってきたのは、彼女の離婚を阻んでいるのは夫ではなく、あき子の異母兄、次郎吉であることだった。そもそもあき子が見合いもなしに結婚させられたのは、後継者である次郎吉の結婚が決まり、家に妾の娘が住んでいるというのは体裁が悪いということになったからだった。最初の方こそ、あき子を自分の都合のために無理やり結婚させたことを後悔している様子の次郎吉であったが、彼女の強靭な意志を認めると、「一介の歌手と姦通、さらに離婚とは、家の恥だ」と言い張り頑なに離婚を阻止しようとした。伊庭はどうにかして次郎吉と会って話をつけようと思ったが、次郎吉の方が拒むので一度も会えなかった。

 当の夫である宮下博士の方は、あき子を愛しているわけではないらしく、離婚に対して特に異存はないようだった。ただし、あき子との間にできた二人の娘は宮下家に置いていくようにという条件つきで、もしこの条件を彼女がのむのならば、次郎吉のことも説得して離婚に応じようと言い出した。

 あき子は非常に苦悩したが、ついに条件を認めた。ようやく昭和三(一九二八)年の一月になって、無事に離婚が成立した。しかし、手放しで喜ぶことができたわけではない。次郎吉は、彼女が中上川家に戻ってくることを嫌がり、彼女を除籍してしまった。あき子はしょうがなく実母の松永姓を名乗るようになり、実母ふみの住む鎌倉へ引っ越した。ふみも姦通したのだし、娘の状況に理解があると思っていたのだが、これは伊庭の見当違いだった。実母は、中上川家の体面を保つためにあき子に辛く当たり、彼女を屋敷の一室に閉じ込めてしまった。こうして、伊庭はあき子と会えなくなってしまった。

 仕方なく、伊庭はあき子に手紙を書いた。この手紙すら没収されてしまうのではないかという不安もあったが、これしか方法はなかった。伊庭は祈るようにして手紙を投函した。

 返事が来たのは一ヶ月後だった。伊庭は急いで封を開けて、貪るように読んだ。そこには、乳母だけは彼女に理解があること、その乳母を通して返事を出せたこと、あまりの辛さに自殺を考えていたところ伊庭からの手紙が来て踏みとどまったこと、などが書いてあった。

 そんなあき子に、伊庭は、ミラノへ行ってはどうかと提案した。あき子は躊躇していたようだが、強く勧める伊庭の熱意に折れ、ついに決意を固めた。あき子は密かに荷物をまとめ、伊庭は旅券を手配した。八月中旬に、横浜港から出ることになった。あとは時期を待つだけだった。

 出発を間近に控えた日のこと、朝刊を読んでいた伊庭は、あき子が近く渡欧するという記事が載っているのを見て、慌てて着の身着のまま小銭だけを掴んで走って駅へと向かった。

(どこかから情報が漏れている)

 今日に限って着物の裾がもつれ、転びそうになりながらも何とか松永家へたどり着いた。門を叩くと、運良く、あき子の乳母だという人が現れた。伊庭のことも知っているようで「お嬢様は、門司から出帆されます。これ以上はお話できません」と言うとすぐに門をぴしゃりと閉めてしまった。彼女が本当に乳母なのか、本当に門司から出発するのか、伊庭にはわからなかった。しかし他にどうすることもできないのだから、信じるしかない。伊庭は、再び駆け出した。

 向かった先は、毎日新聞社である。そこには、伊庭が何度か評論を寄稿した関係から、個人的に何度か酒を飲むまで親しくなった記者がいた。伊庭は、彼を信頼していた。二人の問題がいずれ大々的に世間に知られるなら、せめて彼に委ねようとは思ったのである。

 黒革でできた長椅子に浅く腰掛けた伊庭は、出された茶に手をつけることもなく、真向かいに座る記者にこう言った。

「君も藤原の恋人が近くイタリアへ出発するというのは知っているだろう」

 伊庭の眼光の鋭さに圧倒された記者は、半ば怯えながら頷いた。

「実は、そのことでお願いがあってきたんだ」

「お願い」というには、伊庭の態度はあまりにも強気だった。

「お願い、と言いますと……」

「良いか、よく聞いてくれ。一回しか言わぬ」

 風に吹かれて、甲高い音を鳴らす風鈴の音だけが聞こえる。記者は固唾を飲んだ。

「彼女は、報道陣の目をくらますために、門司から出帆する。直前までは、横浜から出るふりをしているだろうが、夜にこっそり家を抜け出して、列車で九州に行くはずだ。そのあと一泊して、日本を発つだろう」

 記者は急いで胸ポケットから手帳を取り出し、伊庭の言葉をメモした。

「きっと、他のどこの新聞社も知らないと思う。この報道は、君の社の売りとなるだろう。そこでお願いがある。私が情報提供をした代わりに、彼女を守ってやってほしいんだ」

 記者は眉を潜めた。

「どういうことですか?」

「君の社だけでこの報道を独占してほしい。きっと、どんなに彼女が身を潜めても、門司にいるということは出港する前には他の新聞社にも知られてしまうと思う。独占取材するのと引き換えに、彼女を他の人間たちから匿ってくれ」

 そう言って伊庭は頭を下げた。記者は、自分より十以上も年上の男、それも音楽界の重鎮が頭を下げていることに慌てた。

「伊庭さん、頭を上げてください」

 記者の言葉に、伊庭がゆっくりと顔を上げる。

「わかりました、伊庭さんのお願いはよくわかりました。あき子さんはどうぞ私たちに任せてください」

「頼んだぞ」

 伊庭はそう言うと立ち上がった。風が吹いて、伊庭の着物の裾がなびいた。

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