第5話

 やがて夏が来て、再び藤原が帰ってきた。藤原は、今度は木々の間に隠れることもなく、堂々と玄関から伊庭の書斎にやってきた。彼の後ろには、あき子の姿もあった。

「イバコウさん、僕が不在にしている間、彼女を助けてやってくれてありがとうございます」

 藤原は開口一番そう言って、頭を下げた。

「いや、私の方こそ、これまでは散々別れるように言って悪かった」

 伊庭が謝ると、藤原は「いえいえ」と手を振った。

「僕も、今後は中途半端な態度を改めます」

「それより伊庭さん、あちらではアルフレードの練習をしてきたそうですよ」

 あき子が前に出てきて、にこにこと笑いながらそう言った。

「ああ、覚えていてくれたのか」

 伊庭も、自分の言葉を覚えていてくれたことが嬉しく、顔を綻ばせた。

「早速聞かせてもらおうじゃないか。実はな、あの作曲家の山田耕筰(やまだこうさく)が、正統的にオペラを上演したいらしいんだ。もし君の出来が良ければ、私から彼に話を通しておくから」

 三人は、書斎の隣の、伊庭の練習室に向かう。

 書斎とは異なり、こちらの部屋は比較的整然としていた。部屋の隅にはアップライトピアノが置かれ、その横にはチェロが床に寝かせるようにして置いてある。あき子は、上流階級で育ったとはいえ西洋音楽にはあまり馴染みがないらしく、珍しそうにチェロを眺めていた。

 伊庭は、ピアノの後ろにある棚から『椿姫』のスコアを取り出し、ピアノの前に座る。藤原も鞄の中から楽譜を取り出し、その横に立った。

「初めての稽古であることだし、念のため説明しようか。良いか、君が扮するアルフレードは、高級娼婦のヴィオレッタに恋い焦がれている。彼女は、本当の愛など知らないと戸惑うが、やがてアルフレードの思いを受け入れ、一緒に暮らすようになる。幸福な生活だったが、実はヴィオレッタが全財産を売り払って生活費を負担していたんだ。そこへアルフレードの父親ジェルモンがやってきて、二人に別れるよう迫る。高級娼婦と付き合う息子は自分の恥であり、娘の結婚にも差し障ると。ヴィオレッタは犠牲になることを受け入れ、アルフレードには他の人が好きになったと嘘をついて別れる。それに怒ったアルフレードは彼女を大勢の前で侮辱する。数ヶ月後、死期の近づいたヴィオレッタは床に伏せっている。そこへ、父から彼女の真意を聞いたアルフレードが駆けつけるんだ。二人は永遠の愛を誓うが、ヴィオレッタはそこで息絶えてしまう。良いか、これが話の大筋だ」

 伊庭は、何も見ずに滔々と語った。藤原は頷き、楽譜を開いた。

「とりあえず、最初の『乾杯の歌』から聞かせてもらおうか。これは、まだこんな悲劇が起こるとは知らぬ冒頭、宴でアルフレードとヴィオレッタが歌う曲だ」

 伊庭の伴奏に合わせ、藤原が歌い始めた。藤原は相当練習を重ねていたのか、伊庭が想像していたよりも上手に歌った。特に、高音の伸びが際立っている。伊庭は成功を確信し、一人頷いた。入り口のところで椅子に腰掛けていたあき子も、二人の様子を見て微笑んだ。

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