第4話

 三月下旬の東京では、ようやく桜の花が綻び始めた。春の訪れといっても、まだまだ冷え込むことも多い。伊庭は普段着に羽織を着込み、下駄をつっかけて外に出た。向かう先は谷中である。

 墓地に足を踏み入れた伊庭は、一つの墓石の前で立ち尽くした。

(命日だというのに、誰も来ていないのか)

 墓石の横の花瓶にはもう何ヶ月も前に枯れたような花が飾ってあるだけで、墓石も風雨ですっかり汚れていた。伊庭は水を汲んできて墓石を綺麗にしてやり、枯れた花を片付けて、道中で買ってきた菊の花を生けた。ついでに墓石の周りに生茂る雑草も抜く。

 伊庭はようやく墓石の前に跪き、両手を組み、目を閉じて頭を垂れた。

(徳子、今日でお前がこの世を去ってからもう七年が経つ。私はずっと、生前のお前の気持ちをわかってやれなかったことを悔いている)


 伊庭と徳子が決別したのは、大正七(一九一八)年のことであった。発端は、興行会社の松竹が、徳子を専属女優にするという条件で契約を交渉してきたことである。

 伊庭は初めから松竹との契約に否定的だった。興行会社というものは、芸術的価値ではなく、目先の利益を優先するものである。もし松竹と契約すれば、これまでほど自由に活動ができなくなるし、松竹自身の収益のために自分たちが迷惑を被ることもあるだろうというのが伊庭の懸念だった。

 一方、徳子はどうしても松竹と契約したいと言い張った。伊庭が席を外したすきに、徳子は口約束で契約を承諾し、二人が立ち上げた一座は松竹の傘下に入ることとなった。この頃、徳子は夫である陳平との離婚も正式に成立し、永井(ながい)姓を名乗るようになった。

 しかし、いつまで経っても松竹は契約を履行しようとしない。それどころか、伊庭たちが関西で巡業している最中に「スペイン風邪の流行」という理由で、松竹は契約の延期を申し出た。

「私が言った通りじゃないか。もう松竹との契約は忘れよう」

「いいえ、絶対に松竹は約束を守るはず」

「どうしてそこまでして松竹に入りたいんだ。私との興行では不満だというのか」

「いいえ、そんなことない。けれど、もっと大きな後ろ立てがあった方が良いでしょう」

「そんなもの不要だ。とにかく、松竹と関わるのはもうやめよう」

「絶対にいや」

「なぜ君はそこまで松竹に固執するのだ。もしかして、お前、松竹の橋本(はしもと)と関係があるんじゃないだろうな」

 伊庭の言葉に、徳子は黙った。橋本というのは松竹の社員で、契約を持ち込んだのも彼である。以前から、伊庭は徳子がこの男に気があるように見えてならなかった。

「違うの」

「じゃあ、何が問題なんだ? 私にも言えぬと言うのか」

「……ええ」

「これまでお前を支えてきたのは私だろう」

「私は、一人で生きたいのよ」

 俯いていた徳子が、顔を上げた。そこには、徳子特有の、睨むような、強い意志の感じられる眼差しがあった。

 かっとなった伊庭は、手にしていた脚本を徳子に向かって投げつけた。

「もう良い。勝手にすれば良い」

 怒りにまかせ、伊庭は部屋を出た。後ろで徳子が彼を呼ぶ声がしたが、振り向きもせず、関西巡業中の宿として二人で借りていた家を出て、そのまま汽車に乗って東京へ帰ってしまった。翌日も、翌々日にも公演をする予定だったが、伊庭はそんなことを考える余裕もないほどに激昂していた。

 伊庭には、徳子をサポートしてきたのは自分だという確信があった。いくらアメリカで舞踊を学んできたとはいえ、女である徳子の意見を聞くような男は浅草にはいない。初めて会ったときから、伊庭は彼女を徹底的に支えようと行動してきたつもりであった。彼女の言うことを聞かない団員たちをまとめ、興行に乗じて金をゆすりにきた地回りを追い返すのも、伊庭の役目だった。それなのに、一座の行く末を左右するこの重要な決定に、徳子は全く自分の意見を聞き入れてはくれなかった。

(徳子は、私を愛していたわけではないのだ。都合よく利用されていただけだ)

 伊庭がいなくなったあとの一座を女一人で統率するのは、やはり大変だったらしい。徳子からは復縁を請う手紙が何通も届いた。伊庭は手紙が来るたびにそれを破り捨て、全てを無視した。

 そのうち、徳子は九州のゴロツキと関係を持ち、松竹との問題も解決したということを知った。

(やはり、徳子は、自分を守ってくれる男であれば誰でも良かったのだな)

 その知らせを聞いた伊庭に、再び怒りがふつふつと湧いてきた。もう一生徳子とは関わるまいと心に固く誓った。

 やがて、徳子が九州で巡業する予定だという噂が伊庭の耳に入ったとき、なぜか彼の心はざわついた。もう自分の他に彼女の盾となる人間がいるのはわかっていたが、悪い予感は日に日に増大し、無視できないほどに大きくなっていった。

「私の代わりに、徳子の様子を見てきてくれないか」

 徳子が九州で興行を行うことを知った伊庭は、弟子の一人を彼女のもとに派遣した。

 伊庭が徳子の死を知ったのはそれからすぐのことだった。

「徳子さんが死んだのはあなたのせいだ」

 弟子は、伊庭の家に戻ってくるなり、そう言って伊庭を責めた。

「どういうことだ」

「徳子さんがあんなに松竹と契約したがっていたのは、陳平が離婚のために要求してきた莫大な手切金を払うためだったんです。徳子さんは死ぬ前、あのゴロツキが目を離した隙を窺って僕一人を枕元に呼んで、こう言ったんです。『夫は、私たちを姦通罪で訴えると脅した。訴えられたくなければ、大金を払うという離婚の条件をのめと。伊庭さんのように才能のある方が、こんなところでぐずぐずしているわけにはいかないもの、私はもちろん条件を承諾した。もし伊庭さんがこのことを知ったら、自分が借金をしてまで私のためにお金を工面してくださるでしょう。でもそれじゃあ私は嫌なのよ。今までも、ずっとそうだった。私はいつも伊庭さんに庇護されていた。もっと対等な関係で彼と向き合いたかっただけだったの』と」

 伊庭はその場にくずおれた。

 その後も、弟子は伊庭と別れた後の徳子について話した。伊庭という強力な後ろ盾を失った徳子は、松竹との問題を解決し、順調に巡業を行うために、ゴロツキであると同時に興行師でもある男と関係を持った。松竹との問題は解決したが、徳子の考えたようにはならなかった。その男はやがて徳子に暴力を振るうようになり、金をせびった。これは彼女を苦しめ、精神に異常をもたらした。疲れ切った彼女の体は、ついにこの苦しみに耐えることができなかった。

「一人にしてくれ」

 伊庭は重い体をどうにか持ち上げて、ふらつきながら書斎へと戻った。

(私は、徳子の気持ちを一度たりとも考えたことがあっただろうか? もしあのとき感情的にならず、よく彼女の話を聞いていれば、決して彼女を死なせることはなかっただろうに。せめて、私が九州まで付いていき、私の腕で死なせてやりたかった!)

 しかし、不思議と涙は出なかった。それ以来、伊庭は徳子のことを片時も忘れることはなかったが、泣くことは一度たりともなかった。

 

 あの日のことを思い出し、目を開けた伊庭の前には、ただ徳子の名が刻まれた石があるだけだった。

(徳子、私は今も、君との夢を叶えるためだけに生きている。天上から、見守っていてくれ)

 伊庭は片手をついて立ち上がった。春の日差しがあまりにも眩しすぎるように思われて、めまいがした。伊庭はよろめいたが、彼にはまだしなければならないことがあった。その足で、駅に向かった。


 あき子に会わせてほしいという伊庭に、宮下家の女中は困惑したように「旦那様が、あき子さんは今誰とも会ってはいけないとおっしゃっているのです」と答えた。

「藤原とのことでしょう。私は藤原の父親代わりとして、あき子さんに藤原と別れるようお願いしに参ったのです」

 女中はさらに困り果てたような顔をして、屋敷の奥の方へと消えていった。伊庭は、客間で正座しながら待っていた。

 伊庭が待たされている客間は和室で、よく手入れされた庭が目に入った。床の間に飾られている花瓶も、掛け軸の質も上等である。あき子は、妾腹に生まれたとはいえ、生母から引き離されて中上川家に引き取られて育った。徳子がアメリカで食うものに困り涙をのんで見世物小屋に出ている間も、彼女は何の不自由もなく学習院に通っていたのだろう。同じ女でもこうも違うものかと、伊庭は社会について思いを馳せた。

 伊庭の耳に、しずしずと静かな足音が響く。部屋の入り口に目を向けると、着物姿のあき子が立っていた。伊庭は、かつて彼女をパーティーで見かけたことがあった。相変わらず美人ではあるが、げっそりとやつれ、生気がない。

「あき子でございます」

 あき子は、伊庭の前に正座をするとそう言って手を突いた。

 あき子に合わせ、礼儀正しく自己紹介する伊庭に、彼女は力なく微笑んで「藤原からよく聞いております」と言った。

「実は、先日私のもとに藤原から手紙が届きました。藤原は、あなたからしょっちゅう帰国を請う手紙が来るので、あなたのことが気にかかり、練習に集中できないようなのです。藤原は、苦労してイタリアへ行き、やっと歌手として一人前になりかけてきました。彼は、日本の音楽界も背負っているのです。もしもし彼がここでダメになったら、そのときこの国の音楽も終わるでしょう」

 あき子は伊庭の言葉を聞いて俯いた。背中を丸めた彼女の姿があまりにも儚く、今にも消え入りそうだった。伊庭は、そんな彼女に追い討ちをかけるかのように続けた。

「あき子さん、お願いです。藤原とは別れてください」

 あき子は下を向いたまま黙っていた。伊庭はそんなあき子に畳み掛けた。

「日本が一等国になるためには、オペラが必要なのです。そして、この国のオペラ界を牽引する歌手は藤原しかいません。この国の音楽界を、そしてこの国を救えるのはあなたしかいないのです。辛いかもしれませんが……」

 伊庭は、請うような口調でありながらも、きっぱりとそう言った。

「伊庭様、お言葉ですが、私はそんなもののために犠牲にはなりません。私は誰よりも藤原を愛しているのですから」

「しかし、藤原の立場はどうなりますか。あなたの愛する藤原は、あなたのせいで地獄に堕ちていくかもしれないのです」

 伊庭の言葉に、あき子は唇を噛んだ。しかし静かに首を振りながら、答えた。

「藤原は、このようなつまらないことで、揺らぐような人間ではありません」

「いいえ、世間は、あなたが思うよりも残酷なのです」

「そんなこと、わかっています。現に、私だって苦しんでいます」

 全く意志を曲げるつもりのないあき子に、伊庭はいかにも彼女に同情しているかのように振る舞う。

「ええ、そうでしょう。私にはあなたの気持ちがよくわかります。私にも、あなた方と同じように若かった頃がありました。私もかつて、人の妻であった人に恋したことがあったのです。来る日も来る日も新聞記者が家に押し寄せ、夜も眠れなかったものです」

 伊庭は当時を思い出すように、大袈裟に顔を歪めて見せた。本当は、伊庭にとっては世間の非難は痛くも痒くもなかった。しかし、かつては俳優として舞台に立っていたこともある伊庭である。情感たっぷりにそう言ってのけた。

「さぞかしお辛いことでしょう」

 伊庭は、最大限の演技力をもって、苦々しく、あき子をいたわるようにそう言った。しかし、彼女はそれを跳ね除けた。

「あなたに同情されるほど辛くはありませんわ」

「失礼ですが、ご自分のお顔を鏡で見ましたか。随分疲れ切ったご様子ですが」

「いいえ、そんなことはありません。私は、彼を愛しているのですから」

 ——いいえ、絶対に松竹は約束を守るはず。

 徳子の言葉が頭をよぎり、伊庭はかぶりを振った。

(いや、今目の前にいるのは徳子ではない、あき子だ。似ても似つかないではないか)

 伊庭は頭に浮かんだ徳子の幻影を振り払うかのように、勢いよく続けた。

「藤原と別れることは辛いかもしれません。しかし、それは長い人生から見れば一瞬の苦痛なのです。今、勇気を出して別れを告げれば、あなたはこの苦境から救われるのですよ」

「いいえ、藤原と別れれば、私は一生苦しむことになるでしょう」

「一時の快楽のために、あなたは一生をお捨てになるのですか。冷静に考えてください。あなたは二人の娘の母親です。夫は社会的な地位もあり、安定した収入もあります。この幸せを捨てれば、いつか絶対に後悔する日が来るでしょう」

「娘のことは関係ありません。それに、私は地位や収入なんて気にしません」

「とにかく、私はあなたに藤原と別れてほしいのです」

 伊庭は、どんな言葉を重ねても折れそうにないあき子に嫌気がさした。

「いやです」

 ——絶対にいや。

 女中がやってきて、二人にお茶を差し出した。あき子はそれに構う様子もなく、どうしても藤原とは別れたくないと言い募った。伊庭もそれに反論し続けたが、あき子は一向に折れる気配がない。彼らの会話は平行線をたどるばかりだった。

「私は何があっても藤原とは別れません。私は、藤原のことも、藤原の音楽も信じています。この世界中で、彼ほど素晴らしい芸術家はいません。私と藤原が一緒にいることは、世間から批判されるでしょう、そして、藤原から離れる聴衆も出てくるかもしれません。しかし、そんな聴衆は相手にしなければ良いのです。彼らは、純粋に藤原の音楽を見てくれていたのではないということですから。真に藤原の芸術を理解する人々は、このようなことで彼から離れたりはしません」

 ——私は、一人で生きたいのよ。

 二人が話し始めて三時間が経った頃、あき子はそう言い切った。あの日の徳子の射抜くような眼差しが、あき子のそれに重なって、伊庭は息を呑んだ。

「え、ええ……。そうかもしれません」

 あの刺すような目つきが、決定打となった。ついに、伊庭はあき子の熱意に負けた。

「私は、藤原の一番の味方でいるつもりでいて、実は藤原のことを信じてあげられなかったのかもしれません。確かに、あなたのおっしゃる通りです。こんなことで離れていく大衆なんて、とるに足りないのです。私は、藤原の力を、もっと信じてやるべきだった」

 伊庭は一言一言を噛み締めるように言った。

(あのとき、もっと徳子の話を聞いてやれば……)

「あき子さん、私は、今のあなたの言葉で改心しました。これまで、反対していたことを詫びます。許してくださいとは言いません。……私は、これからは全力で二人のことを応援します」

 伊庭は畳に手を突いて、深く頭を下げた。

「伊庭様、そんな、顔を上げてください。私も、伊庭様がお力になってくれたら心強い限りです」

 あき子の目には、涙が湛えられていた。顔を上げた伊庭と目が合うと、彼女はわっと泣き出した。

 伊庭は、彼女の横に回って背中をさすった。

(徳子、私は君とのことを後悔していたはずなのに、私自身が、私たちのような哀れな恋人を生み出そうとしていた。しかし、私は二度目の過ちは犯さなかった。この若い二人に幸せな結末を導くために、私がするべきことは一つだ)

 しばらくして、あき子は泣き止んだ。目を真っ赤に腫らしたあき子の前に、伊庭は座り直した。

「あき子さんだって、藤原と離れ離れでいるのは寂しいのでしょう。しかし、こう頻繁に日本に帰ってくれというようでは困ります。それは藤原のためにも、あなたのためにもならない。いっそ、正式に離婚手続きを取られてはいかがですか。その後、藤原と結婚すれば良いのです」

「結婚……」

 あき子は驚いたように目を見張った。まるで、藤原との結婚は一度も考えていないようだった。

「ええ。私もできる範囲でお手伝いしますから、正式に離婚手続きをしましょう」

「私はもう何度も離婚を試みているのです。しかしうまくいかず……」

「大丈夫です。次は私がついていますから。そうめげてはいけません」

 あき子は不安そうな顔をした。「それに」と伊庭は付け加える。

「あなたが藤原と正式に結婚すれば、私も安心です。あなたは誰よりも彼の才能を信じていますから。一緒に、藤原を一流のオペラ歌手に育て上げましょう」

「ええ、藤原を一流のオペラ歌手にすることは、私の夢でもあります。私は、何よりも、藤原の歌へ捧げる情熱に惹かれているのですから」

 伊庭の瞳には、そう言う彼女の顔が、心の底から藤原を愛しているように見えた。伊庭は、徳子と出会った日のことを思い出した。胸の苦しさを取り払うかのように、彼女に手を差し出す。

「宮下博士と離婚し、藤原と結婚する。これが私たちの目標です。一緒に頑張りましょう」

 あき子は、その手をおずおずと握り、頷いた。

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