第3話

 三ヶ月後。

 伊庭はいつも通り剣術の稽古を終えた後、居間で朝食を食べ、そのまま書斎へと向かった。六畳ほどの書斎には、中央に置かれた机を取り囲むように棚が置かれている。一つの棚を除いては全て本棚で、古代ギリシャの音楽に関する文献に三味線の奏法に関する本、夏目漱石の全集からドイツの政治体制に関する研究書までが並べられており、本棚に入りきらずに床に散乱した資料もある。床の間には、養父の想太郎が愛用した刀が綺麗に手入れされた状態で飾られていた。

 伊庭家の傍系の血筋として生まれた伊庭が、第十代当主想太郎の息子となったのは、幼い頃に両親を亡くしたからだった。剣術を弟子たちに教える傍ら、区議や銀行の頭取も務め、何かと忙しくしていた想太郎であったが、まだ弟子たちが顔を見せない早朝には、伊庭に剣術の手ほどきをしてくれたものだった。幼い頃の伊庭は剣術に全く興味を持てず、辛い稽古に泣き出す始末だった。そんなときに養父が彼にかけた言葉は、今でも心に深く刻まれていた。

「良いか、孝、剣術で一番大事なのは、心だ。正しい心があれば、自ずと上手くなる。それは、剣術だけじゃない。孝が将来どんな道に進むにしても、正しい心を持ち続けなさい。自分のことだけでなく、社会や国家についても考える人間でなくてはいけないよ」

 伊庭が中学に通っていた頃、想太郎は汚職にまみれた政治家に憤り、彼を誅殺した。そのまま取り押さえられた想太郎は、「国家のためである」と叫んでいたという。想太郎が獄中で亡くなってからもう十五年以上が経っていたが、国家のことを第一に考える養父は伊庭にとって、良き父であり、指針ともいえる人だった。

 伊庭は棚の前に立ち、引き出しから一枚の写真を取り出した。そこには、皇子の格好をした伊庭と、サーカス団の娘ルイゼに扮した一人の女が写っている。この写真は、伊庭が徳子のために作った戯曲『さすらひの娘』の初演時に、ルイゼ役の徳子と一緒に撮影したものである。『さすらひの娘』は、禁断の恋に陥ったルイゼが、劇中劇の途中で毒蛇に胸を噛ませ、愛する皇子の腕の中で亡くなるという物語で、伊庭が徳子のために作ったものだった。伊庭は、徳子と初めて会った日のことに思いを馳せた。

 伊庭が高木徳子(たかぎとくこ)と出会ったのは、大正五(一九一六)年のことである。徳子は、アメリカから帰ってきたばかりのダンサーで、足の爪先で立って踊る「トー・ダンス」を初めて日本人に披露した。さらに、夫の陳平(ちんぺい)に離婚を求める訴訟を起こしたことがメディアにセンセーショナルに取り上げられ、「問題の女」として一躍有名になっていた。そんな彼女と友人の紹介で会うことになり、一体どんな女だろうと興味を膨らませていた伊庭のもとに現れたのは、髪を短く切りそろえ、袖なしのワンピースを着た女だった。浅草では、徳子のように洋装をした女性も多かったが、彼女の格好は一際目立っていた。さらに、その目には意志の強さを感じさせる強烈な力が宿っているようで、伊庭はすぐに彼女に惹かれた。

「私はアメリカでミュージカル・コメディというものに興味を持ったんです。アメリカの生活と密着していて、誰でも楽しめるものなんですよ。演劇と音楽、それに舞踊が一緒になっているのだけど、私も日本でそういうものをやってみたいと思って」

 二人が会ったのは、浅草のカフェだった。煙草の煙が立ち込め、女給と客の話し声が響いていた。若者ばかりが集まっていて、むせ返りそうなほどの熱気が、やり場もなくさまよっていた。

「実は私も、そういうものを作りたいと思っていたのです」

 すでに演劇界で活躍していた伊庭だったが、演劇に音楽と舞踊を組み合わせた日本独自の芸術を作るという彼の志は、演劇仲間には理解されないでいた。思いがけず、同じような理想を持つ者と出会えて、伊庭の心には電流が走るようだった。

「私が作品を書きますから、ぜひ一緒に公演をしましょう」

 伊庭の言葉に、徳子はきょとんとしたが、やがて愛嬌たっぷりに微笑んだ。

 それからというもの、伊庭は徳子と行動を共にし、伊庭の作った作品を徳子の主演で次々と上演した。やがて一座の名前を「歌舞劇協会」と変えながら、伊庭は彼の理想とする国民歌劇創作に打ち込んだ。

 そんな日々に終止符が打たれたのは、今から七年ほど前のことだった。

(これ以上思い出すのはやめだ)

 伊庭はため息をつくと、写真を引き出しに戻し、机に向かってあぐらをかいた。机の上には、書きかけの原稿用紙と万年筆、それに五、六冊の古びた本が乗っている。

 それから伊庭は時間も忘れて研究に取り組んだ。一年に何冊も本を出し、舞台の評論もする伊庭は、毎日のように締め切りに追われていた。

 空腹を覚えて執筆の手を止め、外に目を向けると、すでに夕闇が迫っていた。伊庭は慌てて立ち上がり、珍しくスーツに着替えて家を出た。今日は、もうすぐ渡米する藤原の告別演奏会の日だった。


 演奏会を成功裏に終えたあと、藤原と伊庭の二人は、伊庭の家に集まった。伊庭は床に散らばった本や原稿用紙を部屋の隅の方に寄せ、なんとか大人の男二人が座れるスペースを作った。楽壇でも屈指の大酒飲みである伊庭は、あぐらをかいて頬杖をつきながら、次々とグラスを開けていった。藤原も酒に強いというわけではないのに、今日は珍しく、溺れるように飲んでいた。

「僕はまた彼女を置いて旅立つ、意気地なしなんだ」

 飲み会も終盤に差し掛かった頃、藤原が机の上に伏せながらうめいた。伊庭はぎょっとした。

「彼女って、もしかして宮下夫人のことか? まだ付き合いがあったのか?」

 藤原は机に伏せったまま返事をしなかった。この態度ほど藤原の答えを明確に示すものはない。

「もう別れたとばかり思っていたのに。今回もこっそり会っていたのか」

 伊庭が藤原の肩を揺さぶると、彼は顔を背けた。伊庭はその態度に怒りがこみ上げ、声を荒げた。

「君は今大事な時期なんだ。これからの君を生かすも殺すも、夫人との恋愛次第だ。君の不倫が公になったら、どうなるかわかっているのか」

「しかし、僕はあき子を愛しているのです」

 藤原は顔を上げぬまま、うめいた。

「イバコウさんだってわかってくれるでしょう。夫のある女に恋することの苦しさが」

 藤原は同意を求めるような目つきで伊庭を見た。今度は伊庭が黙り込む番だった。無言のままグラスに入った酒を飲み干す。

「僕がイバコウさんと親しくなったのは、徳子さんと別れたあとのことですから、お二人の恋愛についてはあまり知りません。しかし、イバコウさんだって辛かったでしょう。愛する気持ちと、姦通罪に訴えられるのではないかという不安がせめぎ合って……」

「私はそんなもの怖くない」

 伊庭は藤原を睨みつけた。

「しかし、僕はやはり怖いのです。そして、僕を愛していると言いながらも、結局は離婚をしない彼女のことも不満です。本当は僕のことなんて一時限りの愛人としか思っていなくて、結局は財力も名誉もある夫のもとに残り続けたいのかもしれない、と思うと……」

「それなら別れたら良い」

「そうじゃないんですよ。僕はそれでもやっぱり彼女が好きなんです。それに、自分でいうのも何ですが、彼女を救ったのは僕だという自信があるんですよ。何しろ、彼女は、女学校を卒業してすぐに決められた相手と強制的に結婚させられたんですから。それも、一回り以上も年上の男と。彼女は、僕と恋をして、『生まれてきて良かった』とまで言ったんですよ。もう、あのときのあき子の可愛さらしさといったら」

 藤原はグラスに並々と注がれていたワインを一気に煽り、照れ隠しをするかのようにまた机に突っ伏した。そのまま、藤原は続けた。

「それに、僕も彼女によって救われたんです。僕は幼い頃から捨て猫のようにあちこちへ預けられて育ちました。血の通った親の愛を知らない僕に、本当の愛情を教えてくれたのは彼女なんです」

 そう言って涙さえ流す藤原に、伊庭は呆れた。

「そうは言ったって、君は浅草時代にソプラノの安藤(あんどう)と結婚して、子供まで生まれたじゃないか」

「昔の話ですよ。それに、その子は生まれてすぐに死んじゃって、結局僕は抱き上げることすらできなかったんですから」

 悲しそうに言う藤原に、伊庭は苛ついた。

「安藤は君を非常に愛していたが、君は彼女の愛に答えなかっただろう。そもそも君は、安藤から逃れるようにしてイタリアへ旅立っていったじゃないか」

 痛いところをつかれた藤原は黙り込み、力なくうなだれた。

「とにかく」と伊庭が声を上げた。

「君はそんな中途半端な態度を改めるんだ。今の君に、恋愛にかまけている暇はない。次外国に行ったら、五年は帰ってきちゃいけないよ。あちらで一流のオペラ劇場の一つにでも立ってから帰ってきたまえ。恋愛はその次だ」

 藤原は伊庭の説教を頭を垂れて聞いていた。頰には一筋の涙さえ流れている。気まずい空気が流れ、伊庭はそれを断ち切るように、わざと明るい声を出した。

「さ、もっと飲もう。隠していたんだが、実は藤原の好きな日本酒も用意してあるんだ。藤原、そんなに泣くな。君には明るい未来が待っているんだ」

 伊庭は立ち上がって台所へ向かった。部屋を出て行きざまに藤原を盗み見ると、彼はまだうなだれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る